法相宗ほっそうしゅうの歴史

法相宗は奈良時代に中国からもたらされた宗派「南都六宗」のひとつで、日本における現存最古の宗派です。

 法相宗の教えである「唯識思想」は、5世紀ごろに弥勒菩薩にはじまり、インド僧 阿僧伽あさんが(無著)菩薩・伐蘇畔度バスバンドゥ(世親)菩薩によって大成され、 瑜伽行ゆがぎょう唯識学派と呼ばれました。特に伐蘇畔度菩薩は『 唯識三十頌ゆいしきさんじゅうじゅ』など多くの論書を編み、唯識の基礎を築きました。 その後、護法菩薩をはじめ十大論師が活躍し、インドで唯識学派は広まりました。
中国に伝来したのは7世紀はじめです。中国・隋代に生まれ、初唐期に活躍した玄奘三蔵(602-664)は、唯識学派の教えと経論を求めて求法の旅に出ます。そしてインドのナーランダ寺院で戒賢論師から教えを受け645年に帰国します。帰国後は唯識の経典をはじめ、持ち帰った経論の翻訳に生涯を費やされました。
玄奘三蔵は、翻訳に尽力されたため、弟子の慈恩大師窺基きき(632-682)に唯識の教義を託し、慈恩大師は経論の注釈書を著し、法相宗を開きました。法相宗では慈恩大師を宗祖、 その師である玄奘三蔵を鼻祖または始祖として仰いでいます。

慈恩大師

法相宗の日本への伝来は飛鳥時代にさかのぼります。653年に入唐した遣唐僧 の道昭により伝来しました。
道昭(629-700)は玄奘三蔵に師事し、翻訳間もない『じょう唯識論』をはじめとする唯識の論書や 『薬師瑠璃光如来本願功徳経』や『般若心経』などの経典、さらには仏像や舎利を持ち帰りました。道昭の後には智通・智達、奈良時代には智鳳・智鸞・智雄・玄昉たちが法相宗の教えを伝えました。
日本では多くの僧侶が法相宗を学び、特に奈良・平安・鎌倉時代には隆盛を極め、著名な僧侶を輩出しました。

薬師寺の法相宗

 薬師寺の法相宗僧侶は、飛鳥時代の智通・智達にはじまり、奈良時代には行基菩薩(668-749)が知られています。平安時代には最勝会をはじめた仲継、万燈会をはじめた慧達えたつ、 仏教論理学である因明いんみょう碩学せきがく 隆光などが世に出ました。 近世では長乗・高範・基範・基弁などの学僧が薬師寺で学びました。

 南都の諸大寺は八宗(南都六宗と天台、真言)兼学道場であり、薬師寺では法相宗に加えて華厳宗と真言宗がよく学ばれました。華厳宗では明哲・長朗・義聖などが、真言宗では戒明・壱演・義叡などがいます。 そのほかに三論宗、律宗の学僧も輩出しており、三論宗では念仏行者として知られる済源や平超など、律宗では鑑真和上の弟子の如宝などがいます。まさしく仏教の専門大学の様相といえましょう。

唯識の教え

 法相宗の教えを「唯識」といいます。この唯識は、「ただ識(こころ)のみ」が働いて現象世界を見ているという意味です。私たちは、自分の経験に随って物事を認識し、選択しながら生きています。自分では「正しく見ている」と思っていますが、 それはあくまでも「私のこころのなかでは正しくみている」であり、万人にとって正しいわけではありません。
仏教では感覚機能である前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と第六意識(表層の意識)で身心しんじんの働きを説明します。 しかし唯識思想では精神世界を細分化して考えます。前五識・第六意識に加えて第七末那識まなしきと第八阿頼耶識あらやしきという深層意識の存在を説くことが特徴です。 末那識は、自己に執著する心で、たとえば睡眠時のような無意識の時にも働き自我を育てるこころです。
一方、阿頼耶識は、種子しゅうじという自己の経験記憶を蓄える貯蔵庫のようなこころです。阿頼耶識に蓄えられた種子は育まれながら、 新たな記憶へと変化します。この阿頼耶識とそこに蓄えられた種子によって私たちの認識や行動は左右されます。
これをあらわした古歌があります。
 手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池
旅人が、奈良の猿沢池の側で手を叩きます。すると、旅館の仲居さんは自分が呼ばれていると思い「はーい」と答えます。鳩は鉄砲かと驚き逃げてしまいます。池の鯉たちは餌でももらえるかと思って集まってきます。 手を叩くポンポンという音は同じですが、受け取る側(仲居さん・鳩・鯉)の阿頼耶識にある種子によって、行動が変わってしまうのです。
このように私たちは自己の執著によって虚妄分別こもうふんべつして生きていることを知れば、より寛容で謙虚に他者を受け容れることが出来ます。誰しもが誤っているのに誰しもが自分だけが正しいと思い込んでいるのです。 私たちの最も身近で最も難解なこころを解き明かそうとする、これが法相宗の唯識の教えです。

瑜伽師地論

玄奘げんじょう三蔵の生涯

玄奘三蔵(602-664)は中国・隋代に生まれ、初唐期に活躍しました。『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルとなった実在の人物です。

玄奘三蔵

玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取られ、13歳のときに出家しました。玄奘は25、6歳ころまで高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴しました。しかし修行が深まるにつれて教えに疑念を懐くようになりました。各地の高僧はそれぞれ異なる説を立て、経典を見ても玄奘の疑問を解くには至りませんでした。そこで玄奘は、天竺(インド)で教義の原典を学ぶことを志しました。

当時、唐は鎖国政策を取っており、国の出入りを禁止していました。玄奘は嘆願書を出して出国の許可を求めますが認められませんでした。 そこで、27歳の時密出国により旅に出ます。その道のりは平坦な道ばかりではなく、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈、時に盗賊に襲われるなど過酷なものでした。
3年余の旅を経て天竺のナーランダ寺院にたどり着き、戒賢論師に師事して瑜伽唯識の教えを学びました。

玄奘三蔵取経図

ナーランダ寺院での修学を終え、天竺各地の仏跡を訪ね歩いた後、帰国の途につきます。過酷な道を再び陸路により戻った玄奘の旅路は3万キロを超えます。そして17年の旅を終え、経典657部の他、仏像や仏舎利を20頭の馬の背に乗せ帰国しました。 密出国した身でありながら、迎えの使者をだすなど、唐の皇帝・太宗は玄奘を大歓迎しました。
玄奘は持ち帰った仏典の翻訳に取り掛かります。皇帝からの全面的な支援を受け、全国から優秀な僧侶が集められ翻訳が進められました。19年間で地理的な記録書である『大唐西域記』と、75部1335巻の仏典を翻訳しました。 玄奘の翻訳は画期的なものであり、玄奘より前の翻訳を「旧訳くやく」、玄奘以後の翻訳を「新訳」と区別されるようになりました。
玄奘三蔵の命を掛けた求法により、中国そして日本の仏教は大きく発展を遂げたのです。

薬師寺歴史年表
白鳳時代
六八〇年

天武天皇 皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、薬師寺建立を発願する。

六八六年

天武天皇崩御。皇后であった鸕野讃良皇女
が持統天皇として即位される。

六八八年

薬師寺にて無遮大会を設ける。

六九八年

ほぼ構作が終り僧侶を住まわせ始める。

奈良時代
七一〇年

都を平城京へ移す。

七一八年

薬師寺を平城京六条二坊に移す。

七一九年

造薬師寺司に史生二人を置く。

七二二年

僧綱を薬師寺に止住させる。
天武天皇の為に弥勒像を持統天皇の為に釈迦像を作る。

七一七年~七二四年

吉備内親王が元明天皇の為に東院を建てる。

七三〇年

東塔を建てる。

七四五年

薬師寺僧行基を大僧正に任命する。

七四九年

行基 聖武天皇に戒を与える。その後遷化。

七五三年

絵師 越田安万らが黄文本実将来本を写して仏足石を刻む。

平安時代
七九四年

都を平安京へ移す。

八八九年~八九八年

別当栄紹が八幡大菩薩を勧請して鎮守とする。

九七三年

食堂から出火して講堂・三面僧坊・回廊・経蔵・鐘楼・中門・南大門等を焼失する。

九八六年

中門を造立する。

九八九年

台風により金堂の上層が倒壊する。

九九九年

食堂の復興を開始する。

一〇〇五年

食堂の造営が終了する。

一〇〇六年

南大門を立柱し、中門の二天像を造立する。

一〇〇九年

十字廊を造立する。

一〇一三年

南大門の造営を終る。

一〇九五年

本薬師寺跡より仏舎利を掘出す。

一一四〇年

大江親通が南都七大寺を巡礼し、薬師寺に詣でる。

鎌倉時代・室町時代
一二八五年

東院堂を再興する。

一三六一年

地震により金堂・東西両塔破損。中門・回廊・西院等が倒壊する。

一四四五年

台風により金堂・南大門が倒壊する。仮金堂上棟する。

一五一二年

西院西門(現 南門)を建てる。

一五二四年

金堂・東西両塔の再興修造の勧進状を作成する。

一五二八年

金堂・講堂・中門・西塔・僧坊等が兵火で焼失する。

江戸時代
一六〇〇年

金堂を上棟し、葺瓦する。

一六〇三年

八幡宮を再興造営する。

一六四四年

東塔を修復する。

一六五〇年

西院の西門を移築して南門とする。

一七三三年

東院堂の基壇を嵩上げし、西向にかえる。

一八五二年

講堂が落成する。(一九九五年に解堂)

明治
一八七三年

法相宗が廃され、真言宗に属する。

一八八〇年

フェロノサ、初めて薬師寺仏像の調査。

一八八六年

薬師寺法相宗に加入。

一九〇〇年

東塔修理完成。この時心柱頂部に新たに仏舎利を奉納。

昭和
一九三四年

西塔跡に移された文殊堂解堂、西塔跡発掘調査。鐘楼台風により倒壊。

一九三七年

鐘楼を金堂の東に再建。

一九四四年

地震のため金堂、講堂、東塔傾斜、東大門、北大門倒壊、塔頭地蔵院大破する。

一九四五年

農地開放により寺領五町余反を小作者に譲渡。

一九六六年

収蔵庫を建立。

一九七一年

四月三日、金堂起工式。二十二日より二週間。東京日本橋三越百貨店にて月光菩薩展を開催、金堂復興大勧進を行う。

一九七二年

一月八日、お写経道場落慶。

一九七五年

東京別院をお写経道場として開く。

一九七六年

四月一日~五月八日(三十九日間)、現 金堂落慶。百万巻写経達成。三月十五日西僧坊六房復元。三月二一日梵鐘新鋳。

一九八一年

四月一日~五日、現 西塔落慶。二百万巻写経達成。三月十五日東僧坊復元。

一九八四年

十月八日、現 中門落慶。三百万巻写経達成。十月十一日、昭和天皇行幸。中門の初通りとなる。

一九八六年

十月より翌年にわたり、三越百貨店十四店舗にて天武天皇千三百年玉忌記念出開帳を開催。

平成
一九九一年

三月二十日~二十五日、玄奘三蔵院伽藍落慶。五百万巻写経達成。四月二十一日、中門二天王像開眼法要。

一九九六年

三月三十日~四月五日、大講堂起工式。六百万巻写経達成。

二〇〇〇年

大晦日に平山郁夫画伯により「大唐西城壁画」が玄奘三蔵院伽藍の壁画殿に献納される。七百万巻写経達成。

二〇〇三年

三月二十一日~二十三日、現 大講堂落慶。大講堂にて約五〇〇年ぶりに最勝会も復興される。

二〇一七年

五月二十六日~二十八日、現 食堂落慶。田渕俊夫画伯により「阿弥陀三尊浄土図」と「仏教伝来の道と薬師寺」とした大壁画を奉納される。