北向きの縁側でスイカを食べている庭先の、じりじり照り付ける日差しに梅干が干してある風景が私の子どもの頃の夏の思い出です。
 中国原産の梅の学名はPrunus mume、英語では Japanese apricotで、バラ科桜属の落葉喬木きょうぼくで、可憐な花と共に優しい色や香りが人々を和ませてくれています。盆栽に仕立てやすく、樹形が観賞の対象とされ梅林や梅園があり、お花見や盆梅展等が各地で開催されています。
 日本への渡来は、弥生時代に朝鮮半島を経て伝えられた説と、遣唐使が日本に伝えた説があります。
 中国では梅酢を作った後の実を黒焼きにして烏梅うばいを作り、腹痛の治療薬や虫下し、解熱薬として薬用にしていました。また、梅酢は器具や傷口の消毒の他、金属の鍍金ときん防錆ぼうせい処理にも用いられていました。東大寺の大佛様に金メッキを施す鍍金にも使われたと言われています。

 明治43年(1910)から大正9年(1920)に尋常小学校三年生の国語教科書『尋常小学読本巻五』目録第十・うめぼしのうたが掲載されています。

『尋常小学読本巻五』目録第十 うめぼしのうた

二月三月花ざかり
うぐひす鳴いた春の日の
たのしい時もゆめのうち
五月六月実がなれば
枝からふるひおとされて
きんじょの町へ持出され
何升何合はかり売
もとよりすっぱいこのからだ
しほにつかってからくなり
しそにそまって赤くなり
七月八月あついころ
三日三ばんの土用ぼし
思へばつらいことばかり
それもよのため、人のため
しわはよってもわかい気で
小さい君らのなかま入
うんどう会にもついて行く
ましてやいくさのその時は
なくてはならぬこのわたし

 教科書改訂後も掲載が続き、多くの人に親しまれたこの歌の作者は不詳とされていますが、尋常小学唱歌の編纂・校閲に関わっていた芳賀矢一はがやいち〔慶応3年(1867)~昭和2年(1927)〕という人物ではないかと言われています。
 梅の花が咲いてから梅の実、更に梅干となって私たちの食卓に上がるまでが軽快に綴られ、行く末を楽しく纏めた歌は、大勢の人々に親しまれました。
 薬師寺では5時からの勤行終了後、朝食の茶粥と共に毎日梅干をいただいています。

合 掌



「加藤朝胤管主の千文字説法」の感想をお手紙かFAXでお寄せください。
〒630-8563
奈良市西ノ京町457 FAX 0742-33-6004  薬師寺広報室 宛