童画や漫画は、目まぐるしく変化する現代社会の中で過ごす私たちに、束の間の心の安らぎを与えてくれます。
 薬師寺では、持統天皇千三百年玉忌(平成14年)を記念して、日本文化の一端を担う絵本・童画・漫画界を代表する百名に及ぶ先生に散華の原画作品のご奉納をお願いしました。
 平成13年12月1日、東京西新宿のフジオ・プロダクションを訪問し、赤塚不二夫先生に趣旨を説明し散華原画の奉納をお願いしました。先生はその場で快くお引き受けくださいました。そして翌年フジオ・プロダクションより連絡を頂き、平成14年5月1日「天才バカボン」「ニャロメ危機一髪」「夜のイヌ」「人生はこりからのココロ」の原画作品をお預かりしました。
 今日青少年の心が荒廃する中、笑いと親しみ、夢と希望と勇気が湧き出るご奉納頂いた作品に「稚児散華」と名付け、永く寺宝として保存継承しています。諸先生の稚児散華も法要に使わせて頂くと共に、より多くの人々に親しんでいただけることを願っています。

 昭和10年9月14日中国満州生まれの赤塚不二夫(あかつか ふじお)先生は、日本に帰国後18歳だった昭和29年に父親と共に上京、仕事の傍ら『漫画少年』へ投稿を続けました。その漫画が石ノ森章太郎氏の目に留まり、プロへの転向を勧められ、プロ漫画家として活動する事となりました。
 昭和37年『少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を始め、一躍人気作家となり昭和42年には『少年マガジン』にて「天才バカボン」が発表され、天才ギャグ作家として時代の寵児ちょうじとなりました。また代表作が相次いでテレビアニメ化されたことは、多くの人の周知する処です。
 平成14年4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなり脳内出血と診断され、これ以降一切の創作活動が休止されてしまいました。
 闘病生活の甲斐も無く平成20年8月2日午後4時55分逝去、享年74歳でした。
  今考えてみると脳疾患で体調を崩される直前に御目に掛り、原画のご奉納が叶えられたことは、昭和平成の文化を未来に継承する貴重な結果となりました。後日事務所より「この4点は先生最後の作品です」と連絡を頂きました。
  各地で開催されるサイン会では、一枚一枚丁寧にイラストを描きファンと交流をされたそうです。ギャグ作家の一面しか認識していなかった先生の几帳面で優しく丁寧なお人柄は、幼少の頃から苦労を重ねる中で、人を愛する優しさの経験からもたらされる人間性と思われます。

 バカボンという名前の由来は、馬鹿なボンボンであるバガボンド(放浪者)と言われていますが、お釈迦様の呼び名にほとけ十号じゅうごうというのがあります。例えば『薬師瑠璃光如来本願功徳経』の冒頭に、「応正おうしょう等覺とうがく明行圓満みょうぎょうえんまん善逝ぜんぜ世間解せけんげ無上士むじょうし調御丈夫ちょうぎょじょうぶ天人師てんにんしぶつ薄伽梵ばぎゃぼん」とあります。お釈迦様は一つの呼び名だけではなく、沢山の呼び方があって「バカボン」の題名は「バガボンド」と「薄伽梵ばぎゃぼん」を掛けて名付けられたものとも考えられます。お釈迦様は村から町に、町から村へと一ヶ所に留まる事の無い放浪者と似たような遊行ゆぎょうの布教活動をされていました。そして多くの幸せの種まきを実践されました。
 「薄伽梵ばぎゃぼん」の「バギャ」には六種の意味が具わっています。①思うがまま(自在じざい) ②盛ん(熾盛しじょう)③厳か(端厳たんごん)④名高い(名称めいしょう)⑤めでたい(吉祥きちじょう)⑥尊い(尊貴そんき)の六種を如来は身に備え、一切の事物の姿を知る智慧を離れる事がない。これ故に如来を「薄伽梵ばぎゃぼん」と名付けると船山徹著『仏教漢語 語義解釈』にあります。
 天才バカボンは、何物にもこだわることなく自由自在に溌溂はつらつとしていて、全ての人から敬意を以て愛され、誰にでも常に手を差し伸べ楽しみを与える生き方です。
 だから天才バカボンの何があっても「これでいいのだ」と仄々ほのぼのとして優しく語り掛ける行動は、正にお釈迦様の精神に通じるところがあるように思われます。

合 掌



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