天武天皇は即位九年(680)11月12日、皇后の病気平癒を願い、薬師寺の建立を飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやに於いて発願ほつがんされました。日本書紀に「皇后、體不豫みやまいしたまふ。即ち皇后の為に誓願ちかひて、初めて薬師寺をつ」、また東塔の檫銘には「中宮の不愈みやまいしたまふをもって此伽藍を創めたまふ」と記されています。
 しかし、発願された天武天皇は薬師寺の完成を待たず宝齢56歳で崩御されました。最愛の夫帝を亡くした皇后は政務に就き、悲しみの中で朱鳥元年(686)12月19日に、無遮大会かぎりなきおがみを設けられ、亡夫百ヶ日の供養として布帛ぬのきぬを与えられました。
 持統元年(687)の8月28日には一周忌として300人にのぼる高僧を飛鳥寺に招き、一人一領ずつ袈裟をお渡しになり、「これは私の夫の御服を解いて袈裟に作り替えたものです。お召しになって先帝の御回向をお願いします」という言葉が涙につまって声にならなかったと書記は伝えています。
 持統天皇は七回忌にあたる持統六年(692)、先帝のため講堂本尊として、阿弥陀三尊を中心に百余体の菩薩や天人が布に刺繍された大繍佛を造顕なさいました。縦8・88m、横6・45mの立派な刺繍の佛様だったことが「薬師寺縁起」に記されています。夫との来世での幸せを願われたに違いありません。そして、持統十一年(697)7月29日、念願の薬師如来が完成し、開眼供養が営まれました。持統天皇にとって、薬師寺の完成が最愛の夫に対する最大の供養だったのでしょう。8月1日には孫の文武天皇に譲位されています。
 完成した薬師寺は金堂を中心に東西両塔を品字型に配するいわゆる薬師寺式伽藍で、東西両塔には釈迦如来が、金堂には薬師如来が、大講堂には阿弥陀如来が過去現在未来の三世佛として安置されました。前世に修行し悟りを得られたお釈迦様の教えによって、現世における最大の苦しみである病気平癒をお薬師様に祈り、来世は阿弥陀様によって極楽浄土にお導きいただくのです。
 夫婦はただ都合や成り行きによって一緒になったのではなく、深いえにしによって結ばれるのです。お釈迦様は「一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じ様に施しをし、智恵を同じくする人は後の世にもまた同じく一つの心で生きることができる」と『パーリ増支部経典』に説いておられます。
 持統天皇は大宝2年(702)12月22日崩御され、夫の眠る飛鳥桧隈大内陵に合葬されました。天武天皇が崩御されたのは旧暦9月9日です。現在は、毎年10月9日に飛鳥桧隈大内陵陵前にて真心しんじんの誠をささげる法要を厳修させて頂いております(本年は、一般の方のご参列はできません)。

合 掌

画像:天武天皇坐像(鎌倉時代)薬師寺蔵



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