第38代天智天皇は、自身の後継者問題に頭を悩ませていました。当初東宮の地位に実弟である大海人皇子おおあまのおうじが就いていましたが、息子の大友皇子の成長に伴い大友皇子を東宮にしようと内心考えていました。天智天皇が病で重体となった枕元に東宮である大海人皇子を呼び寄せ、天智天皇は皇位を譲りたいと話されました。この言葉には、何かはかりごとがあるに違いないと用心された大海人皇子は、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて皇太子として下さい。私は今日にでも出家して、陛下のため佛事を修行することを望みます」と言い辞退されました。天智天皇は大海人皇子の言葉を受け、許されました。即日全ての武器を公に納め、出家され法服に替えられました。天智天皇の側近は、吉野の宮にお入りになる大海人皇子を「虎に翼を付けて野に放つようなものだ」と噂しました。天智10年(671)12月3日天智天皇が崩御されると近江朝の廷臣らは大海人皇子を亡き者にしようと謀を企てました。
 大海人皇子は「私が皇位を辞退して身を引いたのは、ひとりで療養につとめ天命を全うしようと思ったからである。それなのにいま避けられない禍を受けようとしている。どうしてこのままだまっておられようか」此の事が切っ掛けとなり挙兵を決意されました。そして叔父と甥の骨肉の争いが始まり壬申の乱による大友皇子の破滅を導く事となりました。 壬申の乱は王位継承の争いであって、勝利した大海人皇子は第40代天武天皇として天武2年(673)2月27日飛鳥浄御原宮で即位の儀を催されました。 当初、大海人皇子は、天智天皇と共に改新政治を導き律令制に基づく中央集権国家体制の確立を目指されていました。 激戦の末壬申の乱に勝利し即位された天武天皇は、皇后の鵜野讃良姫と共に国家体制の道を推し進めました。一方、凄惨を極めたこの争いにより多くの犠牲者が生まれました。天武天皇も深く後悔をされたことでしょう。即位後直ぐの天武2年(673)3月17日「写経生を集めて、川原寺で初めて一切経の写経を始められた。」とあります。犠牲になった多くの同胞の菩提を弔うと共に新たな国造りに向け国家の繁栄を願われたに違いありません。

合 掌

画像:天武天皇像 小倉遊亀筆



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