薬師寺金堂にお祀りされている国宝薬師三尊像は、白鳳時代より1300年に亘り国家の繁栄や国民の幸せを求める人々に愛されてきました。このお薬師様がお座りになっている台座には、国際色豊かな文様もんようが彫刻されています。 ギリシャの葡萄唐草文様、ペルシャの蓮華文様、インドの蕃人文様、そして中国の四方神文様です。これらの文様は、1300年前に西洋の文化がシルクロードを通って奈良まで伝えられてきた貴重な芸術文化です。
 四方神とは、東は「青龍」南は「朱雀」西は「白虎」北は「玄武」で玄は黒を意味し蛇と亀によって表わします。そして中央を黄で表わします。四方を色と動物によって守護するのが四方神です。 また四季に当てはめ春を青、夏を朱、秋を白、冬を黒とし、青陽せいよう朱明しゅみょう白蔵はくぞう玄英げんえいと言います。 一日を朝(青)・昼(朱)・夕(白)・夜(黒)の四時に分けたりもします。都の中心の大路を朱雀大路、正門を朱雀門と言います。 会津若松の白虎隊は鶴ヶ城の西を護っていた少年隊で、青龍隊・朱雀隊・玄武隊もありました。又東西の対抗のことを龍虎の対決とも言い、青黄赤白黒しょうおうしゃくびゃくこくの五色を佛教のシンボルとして用いてもいます。 その例が四天王の顔の色で、持国天は東を守護し顔の色は青、増長天は南で朱、広目天は西で白、多聞天は北で黒で装飾されています。またお薬師様の台座にある四方神も先に述べた通りです。
相撲にもこの文化が取り入れられ、青・赤・白・黒の房を館に掛け、土俵の四方を守ります。中央の黄は土俵の色です。相撲は日本固有の神事と共に護り伝えられてきました。
 第11代垂仁天皇7年秋7月7日の項に當麻邑に富摩蹶速たぎまのくえはや当麻蹴速たいまのけはや)という力自慢の勇士がおりました。 その人は力が強く角を折ったり、曲がったかぎを伸ばしたりします。 「我が力、天下にかなうべき者なし」と豪語していました。これをお聞きになった天皇は、「富摩蹶速に勝つ者はいないか」と尋ねられました。すると家臣が進み出て「出雲国に野見宿禰のみのすくねという勇士がいると聞きます。 この人を蹶速と戦わせては如何でしょうか」と進言します。早速呼び寄せ、対戦させた所あっけなく蹶速は破れてしまいます。勝利した野見宿禰は富摩蹶速の土地を賜り、朝廷に仕えたと「日本書紀」にあります。 この伝承により宿禰が「相撲の神」と言われるようになった始まりです。以来相撲は神事としての性格を持ち、今でも祭の際の儀礼や奉納相撲として行われている神社も多く見られます。力士の土俵入りの際柏手を打ち、 塩で清め横綱が注連縄しめなわを締めるのもその為なのでしょう。 相撲は村々の万民豊樂・天下泰平・五穀豊穣・健康増進を願う神事としての意味を持つ場合が多く、両者のどちらが勝つかより融和や豊かさを求めて、村人全員が幸せになることが出来るように催されたものです。だから土俵上で力士が精神と精神をぶつけ合って勝負します。 土俵が丸いのは、円満と言うことです。皆が助け合って支え合って輪になってということです。ただ単なる格闘技とは違って「和」の精神なのです。プロのレスリングやボクシングを見ればリングは四角でどちらかが立てなくなるまで戦います。 相撲は丸い土俵で精神を磨く為に誠心誠意戦います。だから力士は土俵の登り降りの際に礼をし、土俵から降りたら勝ち負けに拘わらずお互いを讃えます。勝負だけが相撲ではないからです。 よく横綱や大関が勝つには勝ったけれど誉められるような勝ち方をしなかった時は「あれは横綱(大関)相撲ではない」と評されます。土俵は力士にとって神聖な場所であって、多くの村人はどの力士の精神力が優れているか、どの力士が人格者として最も相応しいか、 どの力士の心・技・体が勝っているのか土俵を囲んで見極めます。尊敬の思いを表わす行事なのです。

合 掌



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