玄奘三蔵は、唯識教典を多数翻訳し、弟子の慈恩大師は、その思想を体系化しました。法相宗ほっそうしゅうでは、玄奘三蔵を鼻祖びそ、慈恩大師を宗祖と言っています。

 唯識の教義は、斉明7年(661)から天平7年(735)までの74年間に4度にわたって中国から日本に請来されました。記録に登場するのは7名の僧侶ですが、他にも多くの僧侶によって日本における唯識の思想が大成されました。
 中国から伝播した法相唯識の四伝の中で、第一伝と第二伝の教理は元興寺を中心に研究されたので南寺伝なんじでん飛鳥あすかの伝)と呼ばれ、第三伝と第四伝は興福寺を中心に研究されたので北寺伝ほくじでん御蓋みかさの伝)と呼ばれています。第三伝や第四伝といった最新の唯識が伝えられると、それに伴って南寺伝は次第に活気を失い、やがて興福寺内で一条院と大乗院に分かれて研究されるようになりました。唯識思想は佛教の基礎学であり僧侶にとって必須教学であるにも拘わらず、今日では積極的に唯識を研究する寺の制度はなくなり、薬師寺と興福寺だけが法相宗として唯識を受け継いでいます。

 日本へ最初に唯識思想を伝えたのは、留学僧である道昭どうしょう(629~700)でした。道昭は白雉はくち4年(653)に第二次遣唐使船に乗り、中国に向けて出航しました。船には13名の留学僧を含む総勢241人が二艘に分かれて唐を目指しました。しかし一艘は薩摩沖で遭難してしまいます。入唐を果たすことが出来たのは、半数にも満たない人数でした。道昭は荒波を越えて長安に到着し、玄奘三蔵から直接唯識の教理を教わることが出来ました。
 道昭は8年の学びを終え、玄奘三蔵がインドから請来した舎利や多数の経典などを与えられ、斉明7年(661)第四次遣唐使船の復路で帰国しました。玄奘三蔵が逝去する3年前でした。
 玄奘三蔵がインドのナーランダ寺で戒賢かいげん論師から唯識の教理を学び、祖国に舎利や多くの経典を持ち帰ることを許されたのと同じように、玄奘三蔵は戒賢論師のことを思い出し、日本僧の道昭にも舎利や経典を与えました。
 次回は第二伝をお話します。

合 掌



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