佛教教団の有力な擁護者であるマカダ国の阿闍世あじゃせ王は、お釈迦様に帰依し、何かあればお釈迦様に教えを乞い、その指示に従っていました。

 「大王よ、悔過の心の在る人には、罪はもはや罪ではない。悔過の心の無い人には、罪は永久にその人を責めるのである。汝は既に悔過の人である。罪は清める事が出来、恐れる事は少しもいらぬ」。お釈迦様の教えを受けて阿闍世王は「私は世の中を見渡しますに、伊蘭いらんという毒樹の実から伊蘭の樹が生え、伊蘭の実から栴檀せんだんの樹が生えたのを見た事がありません。今私は、初めて伊蘭の実から栴檀の樹が生える事に気が付きました。伊蘭の実とは私のことであります。栴檀の樹とは、私の心に生えた根のない信心のことであります。根のない信心とは、私は今まで恭しく佛に仕えた事も無く、御法みのり僧迦さんがを信じた事もありませんでした。今急に信心が生まれましたから、根のない信心と申しました。もし私が佛にお出逢いすることが出来なかったなら、私は測り知れない長い間地獄へ落ちて、限りない苦しみを受けねばならないのでありました。私は今、目の当たりに佛を拝み奉っていますが、願わくは、このあらゆる功徳をもって未来の人々の煩悩を破りたいと思っています」。
 お釈迦様は阿闍世王に「善き哉、善き哉。汝のその功徳をもって人々の煩悩を破り、悪心を除き得ることは、今私の見通している所である」。阿闍世王は「世尊、もし私が、人々の悪心を破る事が出来るならば、私は、無間地獄にあって測り知れない長い間、人々の為に大きな苦しみを受けても苦しいとは思いません」。
 阿闍世王の言葉を聞いて、マカダ国の多くの人々は、忽ち大きな菩提心を起こしました。そして阿闍世王は、今迄に積み重ねた数々の罪を薄らげることが出来ました。『大般涅槃経だいはつねはんぎょう 第十九 二十』

 悔過けかとは、自ら犯した自覚無自覚に犯した罪や過ちを悔い改めることです。
 日本では、皇極天皇元年(642)7月25日の条に、「大乗経典を転読し、佛の教えに従い、雨乞いの為に悔過す」と『日本書紀』に初めて悔過の所作が登場します。更に称徳天皇の神護景雲元年(767)正月8日の条に、「奈良の大寺や国分寺は悔過の法を行え。この功徳によって天下太平 風雨順調 五穀成熟 萬民快楽 福徳円満に潤うであろう」と『続日本紀』にあります。
 東大寺の「お水取り」や、薬師寺の「花会式」は奈良時代から受け継がれている悔過法要の伝統行事です。

合 掌



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