『日本書紀』天武天皇9年11月12日の条に「皇后が病気になられた。皇后のために誓願をたて、薬師寺を建立する。」と記されています。天武天皇が発願された薬師寺の造営と薬師如来像の造立は急速に進められました。
 薬師寺の創建は皇后の病気平癒と記されていますが、国民の病気平癒であり、天下泰平・万民豊楽・国家繁栄を願われてのことです。
 塔とはサンスクリット語のストゥーパーを卒塔婆と漢訳し、お釈迦様の御遺骨をお祀りするもので、薬師寺には東西二基の塔(卒塔婆)が建立されました。
 佛教がインドから中国へ伝来し広く信仰が深まる中、玄奘法師は今まで伝えられたお釈迦様の教えに疑問を抱き、名利みょうりを捨て正法しょうぼうを求めて求法くほうの旅をされ、夥しい数の経典を持ち帰り、直ちに翻訳を進められました。この功績によって、より正しい佛法が中国に限らず日本にも伝えられました。その中で翻訳した原本や原典を最初は藏に保管しようとお考えになりましたが、この経典こそがお釈迦様の精神を知る唯一のものである事にお気付きになり、教えの舎利いわゆる法身舎利ほっしんしゃりとして塔を建立し、お祀りしようとお考えになりました。
 飛鳥時代に建立された大阪四天王寺や斑鳩法隆寺の五重塔は、本来真身舎利しんじんしゃりを祀る舎利塔として建立されたので塔は一基ですが、お釈迦様の教えである法身舎利を経塔としてお祀りするという考えが玄奘三蔵によってもたらされ、日本における双塔伽藍の建立が始められました。その最初が薬師寺で、東西二基の塔が建立されました。
 薬師寺は天禄4年(973)と享禄元年(1528)の二度の火災により、堂塔の大半が灰燼に帰してしまいました。天禄4年の火災時は金堂と東西両塔は焼失を免れましたが、享禄元年の火災時は東塔を除いて全ての堂塔が焼失してしまいました。
 幸いにも東塔は被災することなく白鳳時代より創建の姿を現在に伝えています。
 薬師寺古記録として長和4年(1015)に撰述された『薬師寺縁起』には、「宝塔二基 各三重、重毎に裳階有り。高さ十一丈五尺、縦の広さ三丈五尺なり。両塔の内に、釈迦如来八相成道の形を安置するなり。東塔は因相 入胎・受生・受楽・苦行、西塔は果相 成道・転法輪・涅槃・分舎利なり。」と記されています。
 薬師寺創建時の釈迦八相像は、塑像であった為、室町時代には風雨によってかなり壊れていたと伝えられています。そして果相の四相像は享禄元年の火災により西塔もろ共焼失しましたが、焼かれて素焼き状態になったまま基壇中に埋もれていました。断片となりながらも、一部は当初の形を留めており、西塔復興時の発掘調査により、約2,000点が確認されています。東塔の四相像は江戸時代の正保年間(1644~48)に取り払われ、塑像残欠の185躰が別保存されています。
 薬師寺はこの釈迦八相像を復元するにあたり、彫刻界の第一人者である中村晋也先生に制作をお願い致しました。そして釈迦八相像の内、果相の四相像を平成27年6月2日と3日に開眼法要を厳修致しました。更にこの度平成21年から行われていた東塔の解体大修理が完成し、因相の四相像を制作頂き、東西両塔は外観だけではなく約500年ぶりに念願が叶い、本来の姿である釈迦八相像を安置荘厳する事が出来ることになります。釈迦四相像のご安置がなされた後、令和5年4月28日~令和6年1月15日迄、東西両塔の内陣特別公開を致します。大勢の皆様のご参拝をお待ち致しております。

合 掌



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