玄奘三蔵法師生誕1400年を記念して、平成14年4月22日より7日間、44人の皆様とともに三蔵法師顕彰の旅をさせて頂きました。
 玄奘三蔵の天竺求法の旅は、出発から困難なものでした。密出国して間もなく乗ってきた馬は死んでしまい、何とか馬一頭を買い求めるも、西域までの道案内者がいません。伊吾(現在のハミ)までの道に詳しい老人に出会いますが案内はせず、買い求めたばかりの馬と老いさらばえた赤馬を取り換えようと言い出しました。
 法師は旅立つ前に助言された言葉を思い出し、そこで馬を取り換え、目的を達成するまでは一歩たりとも東へは帰らないと不退転の決意をし、瑜伽唯識ゆがゆいしき の教えを求め、ひたすら西へと進みました。西安から伊吾に至る道は険悪で、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』には「ここから先は莫賀延蹟ばくがえんせき(ゴビ砂漠)である。空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく水草もない。あたりを見回してみても唯一自分のかげがあるのみ」と伝えられています。
 私たちも西安より嘉峪関に入り、そこからバスで500km、法師が歩まれた道をたどるようにして敦煌を目指しました。道路の両脇は延々と続く荒涼たる原野で360度見渡してみても全く同じ景色です。法師はひたすら西へと歩むうち道に迷い、飲み水の入った皮袋を落としてしまったので、一滴の水も飲めず体力も尽き果てて息も絶えそうになる中、「この旅は財利を求め名誉を願うものではない。正しい佛法を求めるために来たのです」と観音様を念じました。すると涼風が吹き、疲れ切った身体もやや蘇生して元気を取り戻し、ただちに出発しました。ふと気が付くと、なんと東に進んでいます。旅立ちの時、目的を達成するまでは一歩たりとも東に進まないとした不退転の決意を思い出し、馬の手綱を引いても元に戻ろうとはしません。やむなく進む馬に任せてしばらく行くと、大きな泉のある草原に辿り着きました。水を飲み、人馬共に蘇生することができたと伝えられています。瓜州を出るとき、老人から手にいれた痩せた赤馬が法師の危機を救ったのでした。
 バスの旅でさえ大変な苦労でした。道路はどんなに舗装しても一帯はアルカリ土壌で、春になると 祁連きれん 山脈の雪解け水が染み出し、地盤の固い部分と柔らかい部分が"皺„になって洗濯板のように波打ち、その上を車が走るから思うようにスピードは出せません。1日中照り付ける太陽の下で荒涼たる砂漠の中に佇んでいると、瓦礫の起伏や枯れ草の色が悠久の時間を感じさせてくれます。玄奘法師の旅のご苦労が偲ばれる7日間でした。
 玄奘三蔵法師が求法の旅に出られたそのお姿が敦煌の莫高窟ばっこうくつや安西の楡林窟ゆりんくつ 、そして東千佛洞の石窟寺院の壁画に残されていることが近年判明しました。薬師寺にとってはその壁画をおまつりすることも法師顕彰に繋がるとして、敦煌研究所に壁画の模写を依頼、2年の歳月を経てようやく完成しました。私たちの旅は、その復元模写の受け取りと現地を参拝するための旅でありました。 楡林窟、東千佛洞には合計5ヶ所に玄奘三蔵が描かれています。中国西夏時代(11世紀)に描かれたもので、水月観音様や普賢菩薩様を礼拝するお姿ですがそれには訳があります。 それは、出発に際し法師が旅の安全と成功を願って観音様を念ずると、「汝の行途を保ち、経を取りて早く還らしめん。汝の心願を満たさん」とそのお姿が夢に現れたからです。 この観音様が水月観音様で、蓮の華から水を湧き出させ、人々に潤いと慈悲心を与えて下さいます。法師はまさに砂漠において水月観音様に救われました。 混乱した世の中を救い、正しい佛法を世に弘め、人々を正しく導くために命がけで渡天求法を願われた法師が、水月観音様を拝む姿を描いた壁画。この目差しは、命の恩人に対する感謝の気持ちと目的を果たそうとする不屈の精神が満ち溢れているように思われます。
 私たちを案内してくれたガイドさんも「長く敦煌にいて多くの観光者を案内しているが、東千佛洞を訪れるのは初めてです。この道もできたばかりで、今までは道なき道を磁石を頼りに進んだそうです」と教えてくれました。容易に足を踏み入れることのできないこの安西楡林窟や東千仏洞を訪れ、法師の姿に接したとき、法師が佛法によって心豊かな国造りを願われたと同じように、国境を越えて平和な世界が訪れることを願わずにはいられませんでした。

合 掌



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