『日本書紀 巻第二十八 天武天皇 天渟中原瀛真人天皇 上』 の段に、次のようにあります。

 即位4年(天智10年・671)10月17日、天皇は病臥されて重態であった。蘇我安麻呂を遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。安麻呂は元から東宮に好かれていた。ひそかに東宮を顧みて、「よく注意してお答えください」といった。東宮は隠された謀があるかもしれないと疑って、用心された。天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下のため佛事を修行することを望みます」といわれた。天皇はそれを許された。即日出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。
 19日、吉野宮に入られることになった。蘇我赤兄・中臣金連・蘇賀果安臣らがお見送りし、宇治まで行き、そこから引き返した。ある人が言った。「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と。 (全現代語訳『日本書紀』下 宇治谷 孟 講談社学術文庫)
 
 吉野にあった大海人皇子は翌年の6月24日身の危険を感じ吉野を発って美濃に赴き兵を挙げました。菟野皇女・草壁皇子・忍壁皇子と数人の舎人でした。さらに高市皇子・大津皇子も加わり、近江方の懸命な防戦も及ばず壬申の悲劇は終わります。大和に入った大海人皇子は、飛鳥浄御原宮で即位されました。そして天皇と行動を共にした菟野皇女は皇后となりました。天武天皇を直接助けるのは皇后であり、その皇后が天武9年(680)病気になられました。『日本書紀』11月12日には「皇后が病気になられた。皇后のために誓願をたて、薬師寺を建立することになり、百人の僧を得度させたところ、病気は平癒された」とあります。薬師寺東塔の『檫銘』に「中宮の不愈したまふを以て、此の伽藍を創めたまふ」と同様のことが記されています。
 天武14年(685)9月24日、天皇は病気になられました。元号を変えたり、川原寺で燃灯供養を行ったり、宮中で悔過を行ったりしましたが、9月9日(686)天皇の病ついに癒えず、大宮で崩御されてしまいました。
天武天皇のあとをついで即位された皇后の持統天皇は、即位2年(688)正月、無遮大会を行っています。そして『薬師寺縁起』によれば、「持統6年(692)天皇が夫である天武天皇のために阿弥陀大繍佛を造顕される。その年は天武天皇の七回忌に当たるのである。その後持統11年(697)6月26日、公家百寮、天皇の病のために諸願の佛像を造る。と記し翌7月29日、公家百寮は祈願の佛像の開眼会を行う。そして8月1日には皇太子(文武天皇)に天皇の位をお譲りになった。」とあります。  
 夫天武天皇と行動を共にすることは、自らの父親を捨てるということで、よほどの決心が必要であったでありましょう。その夫が病気平癒のために薬師寺を創建するということは、自らの病が癒える為だけでなく万人の病気平癒を願われたに違いありません。病を得ることは人間の最も恐れることである死に直結することです。天武天皇は、生来すぐれた素質を持たれた立派なお方であり、成人してからは雄々しく、武徳に優れていました。それだけでなく、動物を殺したり魚をとったり、むやみに木の枝を切ることも禁じておられます。そんな慈愛に満ちた天皇でありました。 最愛の天武天皇が創建されたご本尊の薬師如来をどうして飛鳥の地に置き去りにすることができましょうか。『七大寺年表』には道昭が文武2年(698)に薬師寺繍佛開眼の賞として大僧都に任ぜられたとしています。薬師寺の造営がほぼ終わった文武2年にこれを期して任命されたのではないでしょうか。天武天皇が皇后のために造られた薬師如来が完成したので、次は持統天皇が夫帝のために阿弥陀大繍佛の造顕を発願されたのです。  

 薬師寺の創建を考える上で歴史学者の最も重要な問題は、藤原京から平城京へ堂塔や佛像を移したものか、あるいは平城京に於いて新築・新鋳したかという点です。 昭和24年『佛教芸術』に発表された小林剛先生の「薬師寺金堂の薬師三尊像について」の論文には、

 それにこの薬師寺はその寺名によっても明らかなように、その建立の意図も、また寺の存在も意義も全く本尊の薬師如来一つに帰せられるのであるから、本寺が移転される場合には先ず第一にその本尊像を移してこそ始めて薬師寺たる所以が保持されるわけである。故にこの薬師寺が飛鳥高市の旧地から新しい都の平城に移築された場合に、その本尊薬師三尊像が移されたとするのは極めて当然で、これを一説の如く天武天皇発願の本尊像をもとの旧地に残して、平城でまた新しい像を造ったというのはどうも合点が行かない。殊にその最初の本尊像は持統天皇11年に完成したのであるから、それから僅か21年後の養老2年の移建にまた同じような丈六の薬師三尊像を造ったとはどうしても考えられない。 この薬師三尊像の様式は、今さらここに贅言を繰り返すまでもなくかなり純粋な写実を基として、これを一種の理想的な佛の姿にまとめ上げたもので、それは全く唐の様式をそのままに受け継いだものということができる。すなわちその面相や姿態はかなり人体の自然な形態に近く造られながら、しかもそこにはいささかも人間的な生々しい感じがなく、極めて高揚された感覚による美しい造型が致されている。またそれらの法衣や裳や天衣などもよく柔軟な布帛の感じを表しながら、それは決して写実そのものではなく、十分に洗練された構成によって実にすっきりとした形にまとめられている。それに三尊像の表現は大らかにして力強く、その形態には至るところに清新な若々しい力がみなぎっている。

 とある。まさに『日本書紀』の天武天皇のお姿をそのまま薬師如来にダブらせたようです。
また、和辻哲郎先生は、大正8年出版の「古寺巡礼」において、

 この本尊の雄大で豊麗な、柔らかさと強さとの抱擁し合った、円満そのもののような美しい姿は、自分の目で見て感ずるほかに、何とも言いあらわしようのないものである。胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光だけでも、われわれの心を動かすに十分であるが、あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線とから滾々としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。 この作に現れた偉大性と柔婉性との内には、唐の石仏やインドの銅像に見られないなにか微妙な特質が存しているように思われるが、それをはっきりと捉える方法はないものであろうか。この問題の解決は、日本という国が明確に成立した時代--すなわち美術史上にいわゆる白鳳時代--を理解する鍵となるであろう。

 とあるように、臣民が一つになって白鳳時代の燃え盛る勢いを、この薬師如来に吹き込んだのではないでしょうか。両先生の言葉を借りて白鳳時代にしか造りえない情熱の結晶であると考え、毎日手を合わせています。

合 掌



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