「褐色の恋人 スジャータ」は昭和51年3月23日に発売されました。その後新幹線の「ひかり」でコーヒーと共に車内販売され全国へ広まりました。また「スジャータ」と大書された配送トラックも時々目にします。全国のラジオ局でラジオ時報CMを35年間に渡って放送されていた事もあり、時報CMとして高い知名度がありました。 商品名の由来は、お釈迦様に乳粥を供養した村娘の「スジャータ」からです。
 昭和50年頃名古屋にある名古屋製酪株式会社(現在の社名はスジャータめいらく株式会社)から高田好胤管長さんに講演依頼がありました。講演の中で乳製品の製造会社に因んで、お釈迦様に最初に供養した「スジャータ」の逸話をお話になりました。講演後に日比孝𠮷社長が御礼の挨拶に来られ、その中で「コーヒーフレッシュミルクの開発をしていて間もなく商品化する計画です。しかし商品名をどう付けるか検討していたところです。今日のお話の中でお釈迦様に乳粥を供養した村娘の「スジャータ」を商品名に付けてもよろしいでしょうか」とお尋ねになりました。高田管長さんは快諾され、暫くして「褐色の恋人 スジャータ」新発売となりました。3月23日は日比孝𠮷社長の御母堂様である日比きくの刀自とじの命日に合わせ新発売したそうです。

 ブッダガヤの北東約7kmのところにお釈迦様が6年にわたる激しい苦行を続けた前正覚山ぜんしょうかくざんがあります。尼蓮禅河にれんぜんがの川岸やセーナニ村から双瘤そうりゅうのように見える山です。お釈迦様が悟りを開かれる前、6年間の苦行生活を続けられましたが真理への道ではないとして苦行を止められ、苦行林を出て山を降りました。断食を含めた苦行生活でやせ衰えたお釈迦様は、緩やかな流れの尼蓮禅河で沐浴をされた後、やっとの思いで体を川岸に横たえておられたところ、スジャータという娘が通りかかり、近くの寺院に供えるために持っていた乳粥をお釈迦様に差し上げました。お釈迦様はスジャータから与えられた乳粥を食し、身心しんじんともに回復し元気を取り戻しヒッパラ樹(菩提樹)下に座し叡智を極め、「縁起の法」を悟り得ることができました。
 マハー・ボディー寺院の東、尼蓮禅河を渡ったところのセーナニ村にスジャータ記念塔があります。この村はファルグ河と尼蓮禅河が合流する三角州にある村で、スジャータが住んでいた村として有名です。お釈迦様の晩年、生涯の中で価値のある供養としてスジャータの乳粥のことを語られたこともあり、スジャータを供養するために記念塔(ストゥーパ)が建てられました。
 『大般涅槃経』には、お釈迦様が入滅する直前に最後に供養したチュンダ(純陀)とお釈迦様が成道する直前に供養したスジャータの両者は、共に価値のある供養を為した人物と定めています。

合 掌



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