薬師寺の宗派である法相宗は飛鳥・奈良時代に我が国に伝わり、栄えました。この法相教学の大成者は、中国唐時代の慈恩大師窺基じおんだいしきき(632~682)で、宗祖として崇敬しています。
 法相宗の教義である唯識教学は、弥勒菩薩に始まり、4世紀、インドの阿僧伽アサンガ菩薩(無着)と伐蘇畔度バスヴァンドゥ菩薩(世親)の兄弟によって大成されました。そして六世紀前半ごろ、護法菩薩が唯識をさらに深め、特にナーランダ寺院において唯識は盛んに研究されました。体系化された唯識教学は玄奘三蔵によりガンダーラを経て中国・日本へと伝えられます。
 中国から印度に求法の旅に出た玄奘は、このナーランダ寺院において、護法の弟子である戒賢について唯識を学びました。帰朝後、『唯識三十頌ゆいしきさんじゅうじゅ』に対する注釈書を翻訳します。玄奘は、護法の註釈を中心として、他の唯識学者の見解を交えながら糅訳にゅうやくします。これが『成唯識論』です。『成唯識論』十巻は、顕慶4年(659)12月30日 弟子の慈恩大師と共に訳出を遂げます。このとき、慈恩大師は28歳の若さでしたが筆受を勤めています。
 この慈恩大師により『成唯識論』を中心として法相教学が大成しました。その後、法相宗は飛鳥時代に道昭によって、はじめて日本に伝えられ、現在は薬師寺と興福寺によって唯識教学の研鑽がなされています。
 宗祖である慈恩大師窺基は、貞観6年(632)、長安に生まれました。姓は尉遅うっちといい、字は洪道といいます。唐の貞観22年、17歳のときに玄奘三蔵の弟子となり出家します。窺基を見た玄奘三蔵は「その眉目清秀にして挙措逼らざる」を感じ、この青年を出家させ弟子に加えたなら、法門のため必ず為す所があるだろうと出家を勧めました。玄奘の弟子となり、慈恩大師は研鑽を積み、やがて「一秀の入室」と呼ばれるようになります。三千人の弟子のなかで師匠玄奘の部屋に自由に入室することが許された、慈恩大師はそれほど秀でていたのです。慈恩大師は、高宗皇帝建立の大慈恩寺に住み、玄奘に従って経論の翻訳に従事します。そして永淳元年(682)11月13日、大慈恩寺の翻経院において入寂します。
 51歳でありました。

合 掌



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