『平家物語』を題材にした『平家女護島へいけにょごのしま』は、近松門左衛門が享保4年(1719)竹本座で初演した浄瑠璃です。能や歌舞伎でも上演されています。 二段目の『鬼界島きかいがしまの段』が特に有名で、現在では主にこの段を『俊寛しゅんかん』としても上演されています。 (浄瑠璃で演じるときは「段」、歌舞伎で演じるときは「場」と言います)

 あらすじは、全盛をきわめる平家打倒のため、鹿ケ谷の別荘へ集り謀略を企てたという罪で俊寛僧都しゅんかんそうず藤原成経ふじわらのなりつね平康頼たいらのやすよりの3人は、薩摩鬼界島へ流罪にされて3年が経ちました。いつの日か許されて都に帰る事だけを願う毎日でした。
 都では、清盛の娘で高倉天皇の后となった中宮徳子の安産祈願のため、大赦が行われます。鬼界島の流人も一部赦される事となり、使者が鬼界島へ向かいました。 海原の遥か彼方に帆影が見え、待ちに待った都への帰還を許す赦免船しゃめんせんがやってきました。 赦免の使者瀬尾太郎兼頼せのおたろうかねやすが読み上げる赦免状に俊寛の名前はありませんでした。清盛は、俊寛一人だけは許さず島に残すつもりでした。 そこへもう一人の使者である丹左衛門尉基康たんざえもんのじょうもとやすが遅れて到着し、平重盛と教経の温情で俊寛も連れ帰るという赦免状を読み上げます。 俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた平重盛が、俊寛にも赦免状を書いていました。安堵して3人が船に乗り込み、島で成経と夫婦となった千鳥がそれに続こうとすると、瀬尾がそれを阻止します。 瀬尾は、重盛の赦免状に「3人を船に乗せる」と書いてある以上、4人目の千鳥は乗せることはできないと拒みます。
 再び嘆きあう3人と千鳥に瀬尾が追い撃ちをかけ、俊寛が流されている間に清盛の命により俊寛の妻の東屋あずまやが殺されたことを告げます。しかも東屋を手に掛けたのは瀬尾でした。 都で妻と再び暮らす夢さえも打ち砕かれた俊寛は、絶望に打ちひしがれます。 都にもはや何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから、かわりに千鳥を船に乗せてやるよう瀬尾に懇願します。しかし瀬尾はこれを拒絶し、思い詰めた俊寛は、瀬尾の刀を奪って瀬尾を殺してしまいます。 瀬尾を殺した罪により自分はここに留まるからと言い、代わりに千鳥を船に乗せるよう基康に頼むのでした。 「俊寛が乗るは弘誓ぐぜいの船、浮世の船には望みなし」と強がりを言いますが、しかし本音は違っていました。
 千鳥たち3人を乗せ、俊寛を一人残して船は出てゆきます。とっさに船から垂れ下がる艫綱を追い掛けますが手が届きません。名残を惜しみながら一人見送る俊寛でした。諦めたつもりでも、煩悩は消し難いものです。 悲嘆に暮れる心で高台によじ登り崖に生えている松の木にすがり、松の枝を折りながら遠ざかる船に向かっていつまでも悲痛な声をあげるのでした。

 『俊寛』の物語の裏には平安時代の佛教信仰があります。平安時代後期には観音信仰の思想が盛んになりました。お釈迦様の入滅後、千年あるいは二千年を経過すると末法の時代を迎え(平安時代末の永承7年 1052)佛教の教え通り修行し、悟りを得る修行者がいなくなるとされていました。
 寺院の焼失、武士の勃興、僧兵の横暴に貴族は怯え、世は荒れ、民衆の現実社会への不安は一層深まるばかりでした。 この不安から逃れる為、後生ごしょうに幸せを求める思想のひとつが補陀落渡海往生ふだらくとかいおうじょうです。 観音菩薩の浄土を求め渡海往生を願い僧侶が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出て捨身しゃしん(入水自殺)を行うものです。 南方には補陀落である観音浄土があるとされ、民衆を浄土へ先導するためとして渡海が多く行われるようになりました。海流に流されて生還することがなければ、観音浄土へ至った証との思想に基きます。
 平安時代は、現在のような葬送儀礼の習慣はまだなく、渡海船に乗船する前に、所持品をまとめて海の見える場所に埋め、その脇に松を植えました。 誰でもそのように出来るのではなく、一部僧侶など高貴な人に限られていました。 『鬼界島の段』に登場する俊寛も、法勝寺で執行しぎょうを務めていた僧都ですから、いずれ命尽きる時は自分も所持品を纏めて海を望む場所に埋め、その脇に松を植え、補陀落往生出来る事を確信していた筈です。 しかし謀反の罪で島流しに会い、更に僧侶としてあるまじき殺人を犯してしまいます。絶望の渕に沈む俊寛の心は無情にも打ち捨てられ、高台に登って生えている松の木に無念の思いで縋り付き枝を折り、遠ざかる船に向かっていつまでも悲痛な声を掛ける、この場面は、 日頃無意識の内に積み重ねた悪業あくごうの結果がこの様な形で現実となり直面した時、取り返しが付かなくなってからやっと後悔した複雑な心の深さを表現しています。
 古来より風雪に耐えながら緑色を保つ松は、不老不死長寿の象徴として珍重されてきました。松は神霊が宿る木と言われ、降神する依り代から神を待つ、神を祀る木として尊ばれています。
 海の見える崖の上の樹木は、どんな樹木でもいいのではなく、松でなければなりません。いずれは補陀落往生できると信じていた俊寛です。それが赦免も叶わず泣き叫ぶ俊寛の未練と無念、そして絶望する心の弱さが込められている最後の場面は、 翻弄される非力な人間の複雑な姿をえぐり出す、真に迫った場面です。

浄瑠璃や歌舞伎をご覧になる機会があれば、この場面も注目してみてください。

合 掌



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