西暦紀元前486年2月15日、お釈迦様は入滅され荼毘に付されました。入滅の地クシナガラの統治部族マッラ族は当初佛舎利の専有を表明し、佛教を国教とする周辺国との間に佛舎利を巡って争いが発生する事態となりました。 ドローナの采配により8等分され、それに、容器と残った灰を加えて周辺内外の10ヶ所に奉安されました。
 約200年の後、敬虔な佛教徒であったマウリヤ朝のアショカ王はインド統一を果たしました。治世9年目に起こったカリンガ戦争がアショカ王の宗教観に大きな影響を及ぼしたといわれています。 この戦争は凄惨を極め、戦闘により10万人の死者を出しダヤー川の下流は、人血によって真っ赤に染まったといわれています。アショカ王は戦争の悲惨さを痛感し、その後不殺生・不戦を誓い、より深く佛教に帰依したと伝えられています。 そして全国8ヶ所に奉安されていた佛舎利を発掘し、周辺国も含めて八万四千に遺骨を分け佛塔を建立しました。
 八万四千とは数が多いという意味で、法門とはお釈迦様の教法です。お釈迦様が45年間に亘り御説きになった教えを総称して言うものです。 お釈迦様のお弟子様の中で多聞第一といわれたアーナンダ(阿難尊者)は、「私は覚者より八万二千の教えを、修行者から二千の教えを学んだ。私が会得している八万四千の教えである」 (『テーラガーター聖典 長老偈経ちょうろうげきょう』1024)とあります。
 佛教聖典がどうしてそれほど膨大な数なのかというと、それだけ多くの人々がお釈迦様の教えに親しむ機会が頂ける様にということです。
一人でも多くの人々が、生きる目標である大切な指針を受け、心豊かな生活が営めるという事です。
 日本のみならず世界各地で信仰されている佛教は、様々な形や相応した形で存在しています。民族の生活習慣や境遇により受け取り方や考え方も様々ですが、それぞれが日常生活に基づいた正しい実践があり、法燈が守り続けられています。 八万四千の法門を生活に取り入れる途中経過は様々ですが、悟りという目標は変わることはありません。それぞれに頂いたご縁に従い、一歩一歩着実に佛道修行を実践すれば、知らず知らずの内に悟りの境地に近づいて行けるということです。

合 掌

写真は、インド サルナート博物館のアショカ王柱



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