ある時お釈迦様は、祇園精舎でお弟子様に蛇のお話をされました。
 「喩えば、蛇取りが大きな蛇を見付けて胴か尾を捕まえました。すると蛇は、驚いて身体を曲げ、蛇取りの腕なり手なり何処かを嚙むでありましょう。それが為にその人は死に至るか、死ぬほどでなくても苦しみを受けるでありましょう。どうして噛まれたのかと言うと、蛇の捕まえ方が悪いからです。」
 丁度その様に愚かな人は佛の教法おしえを学びながら、いわれの本質や真相を理解していないので、それを洞見みとおす事が出来ません。愚かな人は、論議の時に、権威のある教法を聴いているにも拘わらず、義を理解する事がありません。更にその教法を自分の都合に合わせているため、間違った考えを持つ事になり、長く苦しみを招く事になります。
 日頃から多くの人々や両親に礼儀作法をはじめ常識を教わっている良家の人は、これらの教えを更に習い、義を極めその教法を正しく理解して、意識することなく幸福を享受する事となります。
 「喩えば、蛇取りが大きな蛇を見付けた時、棒でしっかりと押さえて首を捕まえた為、蛇は蛇取りの腕なり手なり何処かに巻き付いても、蛇取りを噛む事はなく、その為に死に至る事も、死ぬほどの苦しみを受けることもありません。何故ならば、その蛇をよく押さえているからです。」

 蛇は不吉な動物、執念深い動物として嫌われたりしますが、神やその使いとしているところも多くあります。ここでは蛇が「執着」に喩えられ、迷いから離れて正しい道へ進む教えとして登場します。
 ここに穢れや邪な考えから因果関係を否定し、誤った見解を優れた正しい見解と考えて執着するので、「我」と「我がもの」という悪見あっけんが起きてきます。それは「身」と「心」と「見聞覚知せらるるもの」と「心の見解」です。
 無学にして善人に近づかず、聖者や善人の法を知らぬ人は、「これは私のものである」「私である」「私の自我である」と自己主張して執着します。しかし、日頃から聖者や善人と共に教法を学んでいる人は、執着する心が起きません。
 従って何時までも間違いにしがみ付く事も無く、執着が起きる事も無いし、正しい心を邪魔する事も無く、正しい想いを失い怖れ脅かされる事も無くなり、幸せに感謝する心が養われます。
 この喩えは『増一阿含経』に登場します。

合 掌



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