インドの佛教から生み出された大乗佛教の教えには、「唯識」といわれる思想を説いた瑜伽行があります。瑜伽行派の始祖は、『ヨーガアーチャーラ・ブフーミ Yogacara-bhumi』を説いたマイトレーヤ(Maitreya 彌勒)菩薩です。その後アサンガ(Asanga 無著 むじゃく)とヴァスバンドゥ(Vasubandhu 世親 せしん)の二兄弟がマイトレーヤの教えを引き継ぎ、多くの論を精力的に著わしました。唯識の思想は、インドだけでなく中国や朝鮮半島、日本にも伝えられていて、全ての僧侶は必ず学ばなければならない基本教理でした。にも拘わらず永年の時の流れの中で現在では日本に於いて細々と伝えられています。
唐の玄奘法師は、僧侶になって勉強に勤しむ中、インド出身の真諦が瑜伽唯識の教理(『瑜伽師地論』の本地分)を翻訳した『十七地論』(十七の修行段階から構成されている)に出逢います。しかし訳語が支離滅裂で内容を十分に理解することができませんでした。そこで『十七地論』の原典を求めインドに求法の旅を決心します。
玄奘法師がインドで学んだ場所は、ナーランダ寺で、直接教えを受けた師匠は、ダルマパーラ(護法)の直弟子であるシーラバトラ(戒賢)です。シーラバトラこそ瑜伽唯識研究の第一人者で、五年間に亘り三回講義を受けたのが『ヨーガアーチャーラ・ブフーミ Yogacara-bhumi』でした。これこそインド求法の旅を決意する切っ掛けとなった真諦訳『十七地論』の原典です。弥勒菩薩が説いた瑜伽唯識の思想を玄奘法師が唐に帰って後、最初期に理解しやすいよう翻訳し直し、経名を『瑜伽師地論』と命名しました。
私たちの心の中にある認識を八種類に分類するのが唯識思想の特徴です。一般的に認識を六種類に分けますが、唯識では第八を最も深い認識(深層心理)としてアーラヤ識(阿頼耶識 貯蔵庫となる認識 心の溜り場)と呼びます。六識は、五種類の感覚器官による知覚である「五感」(視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚)で、心の中で作り出される認識を意味する「意識」を合わせて六識です。五感は対象物を認識するだけで、意識は、受け止めた対象物(物とか音とか匂いとか味わいなど)に基づいて苦や楽、過去や未来、繰り返し考えたりする心の働き等の全てを司ります。
唯識思想で心の働きは、生きる上で最も重要で、六識だけでは不十分であり、更に二種類の認識が働いていると考え、「第七識」「第八識」を設けました。
第七識を「末那識」と名付け、迷いの世界を彷徨い続ける根拠となる煩悩によって汚れた心を指します。更に奥の心の最も深いところに存在する第八識を「阿頼耶識」と呼び、迷いと誤知の貯蔵庫です。阿頼耶識は、無意識のうちに心の表層に作用する究極の深層心理で、行為や経験の結果を末那識を介在して阿頼耶識に貯め込むので、経験したありとあらゆる認識の貯蔵庫です。
長い時間をかけ正しい教えの実践を積む修行を進め誤認した煩悩と余韻の全てから離れる事により「転依」(拠所の転換)が起こり、汚れを離れた清浄の極みである「真如」を得ることができると説かれています。
一般的に「修行」とは、肉体を苦しめる事(苦行)により精神を浄化して、悟りを得、欲望を抑えて精神を鍛える実践行動のように考えられていますが、お釈迦様は苦行は間違いであり、肉体を苦しめても悟りは得られないと教えられています。自分ができる正しい教えの実践を続ける事が修行であると述べられています。
合 掌
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