日本佛教の基礎が確立した歴史の中で、天武天皇12年(683)に僧侶の地位や役割を僧網制度として定めました。国が認めた正式な僧侶は、官僧と呼ばれ僧尼令の決まりでは、正式な僧侶は税金を免除されるだけではなく、食住も保証されました。その為国の許可を得ないで僧侶になった人を私度僧と呼びました。本来は違反行為であり偽坊主です。そのような私度僧を「てんぷら坊主」と呼びました。どうしてその様に呼ばれるかと言うと、坊主でないのに衣を付けているだけの偽坊主だからです。
 官僧となるには、授戒の審査を受ける登壇授戒の儀式を受けなければなりません。授戒に至る道のりはとても厳しいもので、一年間に最大20人までと限定されていました。東大寺の戒壇で10人、下野の薬師寺と大宰府の観世音寺が5人ずつで、戒律を受ける事のできる僧侶は難関試験に合格した後、「天下の三戒壇」と総称される三ヶ所の戒壇で授戒することができました。
 「天下の三戒壇」で生涯に一度だけしか授戒する事が出来ないという厳しい制度が敷かれている中、平安時代初期の最澄は、中国で作られた『梵網経』に依る大乗戒(菩薩戒)のみの授戒を提唱しました。しかし当然のことながら最澄の意見に南都の寺院は賛同しませんでした。守るべき戒律の項目も少なく何度でも授戒できる大乗戒は、正式な僧侶でなく俗人が受けるものであるという認識です。弘仁13年(822)大乗戒への勅許(天皇の許可)が下され比叡山の大乗戒壇で授戒が行われるようになると、天下の三戒壇の権威が大きく損なわれるようになりました。
 国が主導した佛教を「国家佛教」といい、庶民が参加するようになった佛教を「民衆佛教」といいます。学問面を重視した国家佛教である南都佛教は、奈良時代には隆盛を誇りましたが、理論より現実的なご利益が求められるようになった民衆佛教が普及する平安時代になると次第に支持者を失いつつありました。南都佛教が衰微する大きな切っ掛けとなったのも事実です。
 更に鎌倉時代に入り最澄の、佛は全ての人を平等に救い、どのような人でも佛教の究極の目的である成佛できる思想(一乗思想)を受け継いで新たな佛教教団を率いたのは、天台で学んだ経験を持つ僧侶でした。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元です。官僧が民衆への布教を許されなかった国家佛教時代と違い、僧侶が民衆への布教に力を入れた事で、日本の佛教は、特権階級だけの心の支えだけでなく、大衆に広まりました。
 悪を重ねた人は救われない、中には永遠に救われない人もいる、人間には成佛できる人とできない人、佛教に無縁な人がいるとする(三乗思想)悟ることが厳しいと説く唯識思想の考え方は、悟れない人間の存在を認め、例え悟り得る事が出来たとしても、永遠に近い時間を必要とする唯識の考え方よりも、悟りに至る時間が早くて確実な救いが得られ誰でも悟り佛になれる大衆性のある一乗思想に魅力を感じ、新たな佛教思想が持てはやされました。

合 掌



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