天武天皇即位9年(680)11月12日の条に 「皇后きさき體不豫みやまひしたまふ。すなはち皇后の為に誓願ちかひて、初めて薬師寺をつ。りて一百僧ももたりのほふしいへでせしむ。是に由りて、安平みやまひいゆること得たまへり。」第四十代天武天皇が皇后(鵜野讃良皇女うののさららのひめみこ)の病気平癒を願って薬師寺建立を発願されたことが『日本書紀 巻第二十九』に記されています。皇后の病気は平癒されましたが、五年後の天武天皇14年9月24日天皇が病気になられたので、三日間に亘り病気平癒の祈りが捧げられました。更に天武天皇15年(686)7月20日には朱鳥あかみどりと元号を改元して、天武天皇の病気の平癒を願うのですが、天武天皇の病は遂に癒えずして9月9日に崩御されてしまいました。
 夫である天武天皇の遺志を引き継いだ皇后は、第四十一代持統天皇に即位して、持統11年(697)薬師寺建立発願より18年の後、念願の薬師寺御本尊である薬師三尊像を開眼し薬師寺が完成しました。「秋七月、癸亥みずのとのゐのひ(29日)に、公卿百寮まへつきみつかさつかさ、佛の開眼みめあらはしまつるをがみを薬師寺にまうく」そして「八月朔ついたちのひに、天皇すめらみことみはかりこと禁中おほうちに定めて、皇太子ひつぎのみこ(文武天皇)に禪天皇位くにさりたまふ。」と『日本書紀』に記されています。
 持統天皇は、「薬師寺創建を発願された夫である天武天皇の遺志を引き継ぎ、全うする事が出来た」とお孫さんである文武天皇に譲位されました。

 薬師三尊像が開眼されたのは697年7月29日ですが、その当時はまだ日本に銅は発見されていませんでした。初めて銅が発見されたのは和銅元年(708)春正月11日の事で、「武蔵野国の秩父郡が和銅(精錬を要しない自然銅)を献じた。武蔵野国から自然に生じた熟銅にぎあかがねが出たと奏上し献上してきた。これは、天地の神が祝福して現された瑞宝である。そのためこの日より景雲5年を和銅元年と改める。」と元明天皇は、天下に慶賀の詔を述べられました。

 前に述べたように、薬師寺の御本尊である薬師三尊像が開眼されたのは、持統11年(697)7月29日です。日本で初めて銅が発見されたのは、和銅元年(708)1月11日です。薬師三尊像が鋳造されたのは、開眼されるより前に鋳造されることは当然のことで、日本にはまだ銅がありませんでした。中国南部の銅である事が現代の科学的調査で明らかになっています。白鳳時代の銅は、金と同じくらいの価値があると言われています。ですから20トンの重量である薬師三尊像は、銅で造られているからと言って、銅の価値で見るのではなく、20トンの金で造られていると考えなくてはなりません。

 天武天皇は、皇后の病気平癒の為に薬師寺の創建を発願されましたが、皇后のためとは方便であって、国民の病気平癒、天下泰平、万民豊楽を願われたのでしょう。そして中央集権国家体制を更に充実させ、中国や新羅、百済、高句麗と対等に国際交流ができるよう、大御宝おおみたから(日本国民)の為の国造りを実践されたことと考えています。

合 掌



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