東京別院での仕事や講演のため、東京に毎月2回から3回出張します。薬師寺の僧侶は、どこへ行くにも法衣と袈裟を身に付け出掛けます。

 先日東京に出張した際、JR山手線に乗りました。空席が無かったので、吊革に捉まっていました。私が立っている前の席には、小学2~3年くらいの男の子とお母さんが座っていました。その男の子が小さな声で、仕切とお母さんに話し掛けていました。暫くして、お母さんが「法衣のたもとの白い紐は何ですか」と訊ねてきました。男の子は私が着ている法衣の袂に付いている白い紐が気になって、仕方がなかったのです。
 お母さんは、子どもの疑問を解決するため、勇気を出して訊ねてこられたのでした。
 私は袂の白い紐の用途を解り易く説明しました。「右の袂の紐を引っ張ると、袂を托し上げることができ、同じように左の紐も引っ張り両方の紐を結んで首の後ろに回すと腕捲うでまくりができ、作業がしやすくなるんだよ。現在はデザイン化されているけれど、本来は、とても実用的で機能的な作りになっているのだよ。」と説明しました。すると男の子は疑問が解け納得したようで、顔がほころんだ様に見えました。親子は私より先に下車しましたが、男の子は降り際にくるりと振り向いて、「ありがとう」と一言、ぺこりと頭を下げ降りて行きました。

 関東では、見知らぬ人に声を掛ける事はめったにありません。ましてや法衣を着た僧侶に声を掛けるとなると、余程の勇気がいります。それを母親が、子どもの疑問を先送りしたり誤魔化したりせず、その場で解決したことは、とても立派な事です。教育とは、些細なことの積み重ねが大切である事を実感しました。
 関西では電車の中で、隣に座っている見ず知らずの御婦人(おばちゃん)がバックから布製の袋を取り出し、飴を戴いたことが何度もあります。そんなことが当たり前の関西と、周りの人が何をしていようと見知らぬ人には関与しない関東との違いです。

 5~6年も前のことです。やはりJR山手線に乗車しました。向い側のドアの前に、年中か年長の幼稚園の女の子とお母さんが立っていました。私が電車に乗った途端、私の姿を見て、女の子は「あれだれ」とお母さんに訊ねました。するとお母さんは「見ちゃダメ」と一言言って、更にその女の子をくるりと反対にして背を向け、見せない様にしました。たぶん女の子は、法衣を着た僧侶に初めて出逢ったのでしょう。だから疑問を解く為、素直にお母さんに訊ねたのだと思います。
 女の子は私の姿とお母さんの言葉を聞いて、何を感じたでしょうか。法衣を着た僧侶は見てはいけないものなのでしょうか。昨今、僧侶には葬儀の式でしか出逢う事がないので、不浄で穢れたもののように思われたのでしょうか。
 第一印象というのはとても大切です。その時お母さんが、例えば「あの方はお坊さんで、私たちに正しいことを教えて下さる大切な人なのよ」と答えたならば、女の子の僧侶に対する印象はきっと違ったものになった筈です。
 その時私はお母さんに「どうして見てはいけないのですか」と訊ねる勇気がありませんでした。その場で子どもの疑問を解決した、男の子のお母さんの勇気を思うと、訳を訊ねもしなかった私の勇気の無さを、大いに反省しています。

 教育とは、算数の計算や国語の読み書き等学校教育だけでなく、日常生活に於ける些細な出来事をその場で解決する家庭教育の大切さが、豊かな心の持ち主、正しい判断の出来る優しい子どもを育てる事になるのではないかと考えています。そういった家庭教育に対する親の姿勢が、子どもたちの将来において大きな差を生んでしまうのではないかと危惧し、私も同じ失敗を繰り返さない様に心掛けています。