お経をお唱えする時、最初の言葉は、懺悔文さんげもんです。懺悔文は『大方廣佛華厳経だいほうこうぶつけごんきょう』普賢行願品に登場する一偈で、「我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう 皆由無始貪瞋癡かいゆうむしとんじんち 従身語意之所生じゅうしんごいししょしょう 一切我今皆懺悔いっさいがこんかいさんげ」とお唱えします。書き下しにすると、「我昔より造る所の諸の悪業は 皆無始由りの貪瞋癡によるものであり 之は身語意より生ずる所なり 我今一切を皆懺悔いたします」です。

 私たちの行いをごうと言い、良い行いを善業ぜんごう、悪い行いを悪業あくごうと言います。此の行いは、現世のみならず、過去世の行いも含まれます。それは、遠い遠い昔(無始)よりの貪瞋癡から湧き出てきます。貪瞋癡を毒に喩えて三毒と呼んでいます。
 貪欲とんよくむさぼり。瞋恚しんにいかり。愚癡ぐちは正しい教えを知らないこと、無知むちです。人間の煩悩は無限の過去世から、とめどなく流れる水のように次々と湧き出てきます。私たちはこれが原因で身体や言葉や思いを通して知らず知らずの内に様々な間違いを犯しています。これらの罪過の積み重ねが結果として災禍を生み出します。
 また六根ろっこんとは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根の五根ごこん意根いこんです。先の五根は外部の情報を受ける窓口で、目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったり、肌で感じたりしたものの全てを認識するのが意根です。根とは、機能や能力の感覚を起さしめる機関のことです。
 五根は外部の情報を受け止める窓口で、本人の意思に関わりなく、好む好まざることに関わりなく、善であろうが悪であろうが全て意根に蓄積されます。その時点では受け入れたものが善なのか悪なのか判断が付いていません。そこで正しく判断できる方法を教えて下さるのが、お釈迦様の教えです。だから佛教は、正しい心の養いを導いて下さる尊い教えです。

 そして懺悔さんげとは、サンスクリット語のサマーを音訳して「さん」を当て、意訳して「」を当てました。懺悔とは、それぞれの宗教における神や聖なる存在の前で、日頃犯した罪の告白をし、悔い改めることです。自らが犯した罪や過ちを反省し、神佛や相手に許しを請い身心の苦悩から解放を求める宗教行為です。
 このようなことから、悔過けか懺悔さんげの行を実践する事で、罪過を取り除くと共に、四季の恵み、国土の安寧、国民の平和と幸福への願いを讃佛礼拝の行に祈りを捧げるのが、悔過の行法です。災禍の原因である過ちを佛様の前で懺悔し、許しを請うことにより、災いの無い世界の実現を受け、幸福を頂く謙虚な心の悔過の作法をしなければなりません。

『法句経』(ダンマパダ)の「自己」の項には、
 自ら悪をなせば 自ら汚れ
 自ら悪を慎めば 自ら浄まる
 汚れるのも 浄まるのも 各自の行い次第であり
 人は他人を浄めることができない(165)

 たとえ他人にとっていかに大切なことであろうと
 そのために自分の義務をおろそかにしてはならない
 自分の義務を熟知して
 自分の義務に専念せよ(166)

と教えられています。