伊能忠敬といえば、日本全国を測量し地図を完成させた人として知られています。
 延享2年(1745)1月11日上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)に生まれ、幼名は三治郎と名付けられました。17歳で伊能家の婿養子として十代目当主となり、伊能家再興に勤めました。

 隠居をしたのが49歳で、それまでは家業の繁栄や村の運営に尽力します。人生50年と言われる時代に、隠居してから天文学や暦学こよみがくを学んだことが、地図作成の基礎となりました。隠居とは定年退職と同じことで、今でいう終活期に入ってから学び始めたことは、老後になって大学に入学するようなものです。「新しいことへの挑戦に年齢は関係ない」と生涯を通じて学び続けました。

 伊能忠敬は、寛政12年(1800)から文化13年(1816)の間、蝦夷地(北海道)の測量を皮切りに、東北、関東、近畿、中国、四国、九州と日本全国を10回に分け測量し、『大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんず』を完成させました。17年間で歩いた距離はおよそ4万キロに及びました。精度の高いこの地図は、明治期までの100年間に亘り使用されました。

 高田好胤管長さんは、お写経勧進の多忙な中、もう一度唯識を勉強したいと、昭和60年から駒澤大学の太田久紀先生を奈良に招いて聴聞されました。
 太田先生の唯識講を最前列で受講されていたのが高田管長さんです。龍谷大学在学中、深浦正文先生より佛教の基本及び倶舎学、唯識学を学ばれました。唯識の教えを会得した上に、60歳を過ぎてから更に学びの場を自ら求める一期一会の精神は、「日常生活に活かした唯識の実践こそが本来の佛教である」とのお考えでした。当に伊能忠敬の向学心に通じるものです。

 伊能忠敬は、大和国薬師寺を測量したことが記録されています。薬師寺を参詣し金堂薬師三尊参拝の後、東塔 東院堂 佛足石 その他重寶を記すとあります。
 文化5年(1808)12月3日のことで、日々の出来事を書き留めた『年預所日記ねんよしょにっき』(薬師寺蔵)に記されています。
 更に唐招提寺、西大寺、秋篠寺も参拝しており、大和国の行程は測量のみならず、社寺参詣を意識した経路があらかじめ設定されていました。

 千葉県香取市佐原には、「伊能忠敬記念館」があります。旧宅も保存されており『大日本沿海輿地全図』も展示されていて、伊能忠敬の偉業の詳細を学ぶことができます。