6月22日は高田好胤管長さんの祥月命日で、今年は27回忌にあたります。
 管長さんの自坊だった法光院は、江戸時代末に建立された塔頭です。夜になると弟子たちが集まってきて、炬燵を囲んで取り留めもない会話を交わし、管長さんは、弟子たちの会話を何も言わず聞いてくださっていました。部屋の畳は表がすり減りボロボロで、縁が破れガムテープで補強していました。特に玄関を上がってすぐの畳はひどく、畳のとこが見えるほどでした。余りのひどさに何度も畳の表替えをしましょうと提案しましたが、「このままでいい」の一言でした。

 管長さんは、お写経勧進の講演のために長期で御出掛けになる事がありました。畳屋さんに相談して表替えを済ませ、お帰りになったら新しい畳でゆっくり寛いでもらおうと出迎えました。その時の私は「そうか、畳を新しくしてくれたんか」と喜んで頂けると確信していました。
 しかしお帰りになった管長さんは、一歩部屋に入るなり「誰が畳を替えたんや。直ぐに元へ戻せ」と烈火の如く怒られたのです。無論ボロボロの畳表を戻すことはできません。以来一切口を聞いて頂けませんでした。新しくなった畳で寛いで頂ければよいと考えていた私は、叱られようが管長さんが快適であればいいので、畳表を替えることができた事を内心喜んでいました。

 言葉も掛けて頂けないまま十日ほど過ぎたある日、「朝胤、あのボロボロになった畳表はお写経勧進に出掛けた証や。大勢の人々にお話を聞いてもらい、お写経のご縁を頂いて尊いご浄財をお寄せ下さった証や。大勢の人々にお世話になっている自分が、枕を高くして眠ることは出来んのや。」と仰いました。管長さんは自らに鞭を打ち、「勧進坊主」と自らを励ましながら一筋の道をひたすら歩んでおられたのです。私は浅はかさを、ただお詫びすることしかできませんでした。

 高田管長さんを一言で表すとしたら「自分に厳しく、人に優しく」です。「物で栄えて、心で滅ぶ」なかで、お写経勧進を通して心の種まき実践をされた信念の人です。昭和43年から続いているお写経勧進は56年を迎え、薬師寺と言えば「お写経の寺」お写経と言えば「薬師寺」と誰からも認められるようになりました。「一人でも多くの人々の心が寄せられて建てられた金堂でなければ、どんなに立派なお堂が完成してもお薬師様は喜んでくださらない」の信念の下、「百里の道は百里を以て半ばと為す」と、敢えて遠い道を歩まれた管長さんの思い出は「自分に厳しく、人に優しく」を貫かれたお姿に溢れています。