年中行事のうち2月は涅槃の月で、各寺院では涅槃像をお祀りし、涅槃会を勤めます。
 お釈迦様は、今から2500年前の西暦紀元前486年2月15日に入滅されました。ベーシャーリーから故郷のカピラバスに向け、布教の旅を続けられたお釈迦様は、途中パーバーに於いて鍛冶屋の淳陀(チュンダ)のために法を説き、供養をお受けになりました。淳陀が供養したのは、スーカラマッタバーという珍しい茸でした。お召し上がりになった後、激しい腹痛をこらえマッラ国のクシナガラに向かわれました。パーバーとクシナガラとは相隔てる事わずか数里に過ぎませんが、お釈迦様は25回もいこわれました。途中「私は今、背に痛みを覚える」と仰せられ、静かに路傍の樹の下に休まれました。そして「咽喉が渇いてならぬ、河に行って浄らかな水を汲んできてくれ」と仰せられ、またカクッター河で沐浴の後、クシナガラに向かわれました。跋提河ばつだいがわ近くの沙羅林に横たわり、頭を北にして西に顔を向け、右脇を牀につけて、足を重ねて静かに臥し給わりました。沙羅の林は、時ならぬ華が咲いて、その色は白い鶴にも似ていて、花片は雨のようにお釈迦様の上に降り注ぎました。この沙羅林を「鶴林かくりん」と呼んでいます。
 お釈迦様は、35歳の時お悟りの境地に達せられました。西暦紀元前531年12月8日の早暁でした。その時のお悟りの境地を「有余涅槃うよねはん」と言いますが、全ての欲望を無くされた訳ではありません。出家した時点で、地位も名誉も財産も家族もお捨てになりました。しかし命の有る限り、食欲と睡眠欲を捨てることはできません。6年間に亘り一麦一麻のほぼ断食の状態で欲望を断つ修行をされました。肉体をいじめても悟りを開けない事に気が付かれ、あっさり断食の修行をお捨てになりました。以来苦行はしてはいけませんと教えられています。今でも断食や不眠不休、滝に打たれるといった苦行を修行と勘違いしている人がいますが、お釈迦様は「苦行はしてはいけません、自らが出来る正しい行いを実践して、更に続ける事が本来の修行です」と教えられています。苦行する事により特別視され、身体を痛めつける事によって自らの精神性が高まったように錯覚する事は、愚かな行為です。お釈迦様も激しい苦行を積まれましたが、「苦行はいたずらに身心を消耗させるのみで、求めていた真理は得られない、自らに苦難を味わわせることは、苦痛であり、無意味で無益で間違った行為である」と説いておられます。
 そして「無余涅槃むよねはん」とは、お釈迦様が悟りを得た人の肉体的な欲望から解き放たれた状態の事です。35歳にして成道されて45年間法をお説きになり80歳にして生涯をお閉じになりました。命の有る限り無くすことが出来なかった食欲と睡眠欲も必要が無くなり、全ての欲望から解放された状態を無余涅槃と言います。有余涅槃と無余涅槃を総称して「涅槃」といいます。涅槃とは「悟り」であって、死を意味する事ではありません。
 お釈迦様がお亡くなりになる前の最後の教えが「自灯明 法灯明 自帰依 法帰依」です。
 「弟子達よ、おまえたちはおのおの自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ。この法を灯火とし、よりどころとせよ。
 教えの要は心を修めることにある。欲を抑えて己に克つことに努めなければならない。わが身を見てはその汚れを思ってむさぼらず、苦しみも楽しみも共に苦しみの因であると思ってふけらず、身を正し、心を正し、言葉を誠あるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。
 弟子たちよ、この教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳のように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。この教えのとおりに行わない者は、私に会っていながら私に会わず、私と一緒にいながら私から遠く離れている。また、この教えのとおり行う者は、たとえ私から遠く離れていても私と一緒にいる。」と『遺教経ゆいきょうぎょう』に説かれています。
 お釈迦様の遺骸は、クシナガラのマッラ族の習慣に従って火葬にされました。遺骨は、マカダ国王のアジャータサッツ、ヴェーサーリのリッチャビィ族、カピラバスのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、クシナガラのマッラ族、ヴェーダディーパのバラモン、パーバーのマッラ族の八大国に分けられストゥーパー(卒塔婆 塔)が建立されました。

合 掌



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