経典には「群盲」という語彙が度々登場します。教養のない人、特に佛教の教えを信じない人を群盲集団と喩えています。

鏡面王が大臣の前で、目の不自由な人を10人集めて象を触らせました。鼻を触った人は曲がった輿こしながえ 、牙をきね 、耳を 、頭をかなえ 、腹を壁、背を丘阜きゅうふ (小さな丘)、前足を臼、後足を樹、膝を柱、尾を綱のようなものと答えました。すると大臣は大声を出して笑いました。その時王様は、大臣に笑うことはありません。お前たちも全体を見ないで、自らの間違いに気付いていないだけです。真理を知るには佛教の教えが必要だと諭しました。『長阿含経』

 目の不自由な人が登場する「象喩の譬え」は、象を佛性に、目の不自由な人を無明の衆生に喩えて、それぞれ象の鼻や牙の一部分だけを触り、執着して論争するお話です。しかし触った場所によって連想する物が異なり、何れも真実であるのに表現が異なる事により、各々自分が正しいと主張して対立します。異なる信念を持つ人たちが、互いを尊重して共存するための原則で、後で事実が理解でき、真実の多面性と思い違いに対する教訓として語り継がれています。

 このお話は印度発祥の寓話で、『長阿含経』の他『パーリ佛典自説経』『涅槃経』『起世経』『華厳経』にも登場し、世の真理を知るには佛教の教えが必要だと結論しています。
 更にジャイナ教、イスラム教、ヒンズー教のみならず、さまざまな思想と歴史を経て改作されました。この喩えを主題にしたお話は、「暗闇の中のゾウ」等と国あるいは地域ごとで題名が異なってはいますが、世界中で広く知られています。またヨーロッパやアメリカでは詩となって伝えられています。
 また日本の格言では、「木を見て森を見ず」「木を数えて林を忘れる」「鹿を追う者は山を見ず」等、目先の利益を追う者は、それ以外のものが見えなくなり、物事や人物の一部、ないしは一面だけを見て、すべてを理解したと錯覚した喩えとして用いられています。

合 掌



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