これより太子は佛陀、如来、無上覺者、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。
 釈尊はまず、6年にわたる苦行の間ともに修行してくれた恩義のある5人の出家者に道を説こうとして、彼らの住むバーラーナシーのムリガダーバ(鹿野苑)に赴き、彼らを教化した。彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから釈尊を信じ最初の弟子となった。また、ラージャグリハ(王舎城)に入ってビンビサーラ王を教化し、ここを教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。
 人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、餓えた者が食を求めるように、釈尊のもとに寄り集まった。シャーリプトラ(舎利弗)、マウドガルヤーヤナ(目連)の2大弟子をはじめとする、2千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、釈尊に帰依した。
 釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって深い苦しみを味わった父のシュッドーダナ王、養母のマハープラジャーパティー、妃のヤショーダラーをはじめとする釈迦族の人たちも、みな釈尊に帰依して弟子となった。その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。
『パーリ律蔵大品第一品(抄)』

 このようにして伝道の旅を続けること45年、釈尊は80歳を迎えた。ラージャグリハ(王舎城)からシュラーヴァスティー(舎衛城)に赴く途中、ヴァイシャーリーにおいて病を得、「三月の後に涅槃に入るであろう」と予言された。さらに進んでパーバーに至り、鍛冶屋のチュンダが供養した食物にあたって病が悪化し、痛みを押してクシナガラに入った。
 釈尊は城外のシャーラ(沙羅)樹の林に行き、シャーラの大木が2本並び立っている間に横たわった。釈尊は懇ろに弟子たちを教誡し、最期のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる佛としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。

 クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、アーナンダ(阿難)の指示に従って、定められたとおりに釈尊の遺骸を火葬した。
 このとき、マガダ国の王アジャータシャトルをはじめとする8大国の王は、みな釈尊の遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起こった。しかし、賢者ドローナの計らいにより、遺骨は8大国に分配された。その他、遺骸の瓶と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、この世に仏の10の大塔が建立されるに至った。『長阿含経第二 遊行経』

合 掌



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