色々な経典にお釈迦様の生涯が記されています。漢文を現代文に書き換え、紹介します。

 ヒマラヤ山の南のふもとに釈迦族の都カピラがあった。シュッドーダナ(浄飯じょうぼん)王と妃のマーヤー(摩耶まや)夫人は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、民衆は喜び従っていた。マーヤー(摩耶)夫人はある夜、六牙の白象が右わきから胎内に入る夢を見て懐妊した。妃は国の習慣に従って生家に帰る途中ルンビニー園に休息した。
 妃は麗しく咲くアショーカの花を右手で手折ろうとした刹那に王子を生んだ。天地は喜びの声をあげて母と子を寿いだ。ときに4月8日であった。
 一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉達多しっだった)と名付けた。
 マーヤー夫人は間もなくこの世を去り、太子は以後、夫人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。生まれて間もなく母に別れ、また農夫の耕す鋤の先に掘り出された小虫を小鳥がついばみ去るのを見て、太子の心に人生の苦悩が刻まれた。『佛伝』

 太子は、春季・秋季・雨季それぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと苦心した。『パーリ増支部 3-38』

 人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。
 正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、誤ったものを求めている者にすぎない。『パーリ中部 3-26 聖求経』

 このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子29歳の年、一子ラーフラ(羅睺羅らごら)が生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住みなれた宮殿を出て行った。そして、この俗世界とのつながりを断ち切って出家の身となった。
 太子は苦行の実際を見、自らそれを実行した。しかし、それらは結局さとりの道ではないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤーの町のかたわらを流れるナイランジャナ河(尼連禅河)のほとり、ウルビルバーの林の中において、激しい苦行をしたのである。『佛伝』

 しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は、6年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨て、ナイランジャナ河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャーターという娘の手から乳糜を受けて健康を回復した。『佛伝』
 いまや天地の間に太子はただひとりとなった。太子は静かに木の下に端座し、命をかけて最後の思惟に入った。『パーリ経集 3-2 精勤経』

 その日の太子の心は、まことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追及して散々に裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。
 しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて曉の明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、佛と成った。それは太子35歳の年の12月8日の朝のことであった。『佛伝』

仏教伝道協会発行『仏教聖典』より抜粋転載

合 掌



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