夏祭りや花火大会に浴衣を着て、下駄を履いてカランコロンと足元に響く音。温泉街の街歩きに当たり前のようにあった下駄が、玄関先から姿を消して久しい。
そもそも下駄とは、木の台に鼻緒が付いた履物で、古くは、弥生時代の遺跡から出土した記録が有ります。現在下駄は歩くための道具として捉えていますが、最初は農具の一つとして生まれたもので、労働の際に足に付ける道具でありました。
下駄を鼻緒のついた木製の履物と定義するならば、古代エジプト・中国・中近東・インド・アフリカなど農耕文化圏に広く見られ、どこが発祥の地であるか特定できていません。日本では、古代の田下駄と殆ど変わらないものが、昭和に入ってからも現役の農具として機能していました。基本的な形態は同じでも、様々な生活の知恵を活かした労働の為の下駄であって、効果的に作業を進めるために、使い勝手を考慮した独創的な工夫がなされています。例えば熱伝導率が低いという木の特性を生かし、火傷をしないように床に熱い灰や燃えカスが落ちているところでの作業に活用したり、水を多く使用する場所では、歯を高くして足が濡れないように工夫したりします。下駄はありとあらゆる場所で使いやすく工夫され、なくてはならない道具です。
仕事のための道具として使われていた下駄も、時代とともに歩く為の履物となり、装いの一部として使用されるようになりました。特に江戸時代には町人文化の下で持てはやされ、お洒落への関心が高まり、足元を装うという意識が高まりました。鼻緒に指を通して立ち上がると、背筋がすっくと伸び、胸を張ってさっそうと歩きだしたくなる。そんな心持にさせるのが下駄です。更に身につける衣装と同様、鼻緒に様々な織物が使われるようになり、ごく自然に色やデザインを楽しむようになりました。江戸時代の観光案内書とも言える『江戸名所図会』には、下駄屋が軒を並べる活気溢れる様子が描かれていて、下駄はお洒落の一部として履かれるようになりました。けれども日常の履物は草鞋や藁草履が主に使用され、下駄が庶民に浸透するのは明治の中頃になってからでした。それはペストが流行して感染しないようにという事と、外国人が多く来日するようになった時代に、裸足で歩くのはみっともないという理由で、明治34年に「裸足禁止令」が出されてから普及するようになりました。
労働の道具として暮らしを支えることから始まり、華やかな江戸町人文化によってファッショナブルな変貌を遂げた下駄。それがやがて広く日本人の履物として定着するまでには、実に長い時間がかかったと言えます。そんな下駄も昭和30年代以降、急速に靴に取って代わりました。けれど長い歴史の中で機能性やデザイン性を追求し、多くの優れた下駄を生み出した先人たちの知恵は、決して途絶えることなく今に引き継がれています。下駄の歴史は、大地を踏みしめる日本人の歴史でもあります。
合 掌
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