玄昉げんぼうは、留学前に第三伝の智鳳ちほう義淵ぎえんから教えを受けた後、養老元年(717)第九次遣唐使船で入唐し、天平7年(735)帰国しました。玄昉も中国に於いて第二伝、第三伝と同じ智周ちしゅうから唯識思想を学びました。

 玄昉が入唐したのは、唐王朝最盛期を築いた玄宗皇帝(685~762 在位は712~456)の時代でした。玄昉は玄宗皇帝から階位第三位に準じる紫色の袈裟(紫衣しえ)を賜わるほど尊敬されていました。外国人が時の皇帝から信頼と保護を受けることは、特異なことです。
 しかし玄昉の人生に岐路が訪れます。帰国後、聖武天皇(701~756)の母である藤原宮子ふじわらのみやこ(生年不詳~754)の病気平癒を祈願して本復させた功績により、天平9年(737)僧正に任ぜられた玄昉は、政治への関りを深めていき、吉備真備きびのまきび(695~775)と共に朝廷に重用され、絶大な権勢を振うようになりました。
 玄昉への反発は次第に高まり、藤原広嗣ふじわらのひろつぐの反乱により官位を下げられただけでなく、天平17年(745)筑紫の観世音寺の造営を命じられ、大宰府に下向させられました。玄昉は筑紫に居を移した翌年、望まぬ地で命尽きることとなりました。
 大宰府の観世音寺の裏手に玄昉の墓碑が建てられていますが、日本佛教史、ことに法相唯識の思想に絶大な功績をもたらした僧侶の供養塔にしては、とても寂しい限りです。

 玄宗開元17年(730)智昇ちしょう(生卒年不詳)が編纂した『開元釈教録かいげんしゃっきょうろく』は中国史上最も詳細な内容を持つ経典目録で、玄昉はこの目録に則り5,000巻以上の経典類を日本に請来しました。紙が高価な時代に多くの典籍を持ち帰ることが出来たのは、玄宗皇帝の庇護のお蔭であると推測されます。

 聖武天皇の妃である光明皇后(701~760)が両親の供養の為に発願し書写された一切経に「五月一日経」と呼ばれる経典があります。奈良時代を代表する一切経で、巻末に五月一日付けの願文が記されていることからその名が付けられています。このお写経の底本となったのが玄昉の持ち帰った経典群です。玄昉の生涯は、波乱万丈に満ちた一生でした。

合 掌



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