お釈迦様は約2,500年前80歳で生涯を閉じられました。クシナガラの沙羅双樹林で、2月15日夜半のことでした。その様子が『長阿含経』『遊行経』『遺教経』などの経典に記されています。

 「弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。
わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみも、ともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観てはその中に『我』はないと思い、それらに迷ってはならない。全ての苦しみを断つことができる。私がこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそ私の真の弟子である。」

 「弟子たちよ、これまでお前たちのために説いた私の教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。もし教えの通り行うならば、常に幸いに満たされるであろう。教えの要は心を修めることにある。だから欲を抑えて己に克つ事に努めなければならない。身を正し、心を正し、言葉を真あるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これを抑えなければならない。心に従わず、心の主となれ。心は人を佛にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、悟って佛となるのもみな、この心の仕業である。だから、よく心を正し、道に外れないように努めるがよい。」

 「弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳のように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。ともに私の教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。つまらぬことに心を使い、無駄なことに時を費やさず、悟りの花を摘み、道の果実を取るがよい。」

 「弟子たちよ、私は自らこの教えを悟り、お前たちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこの教えを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
だから、この教えの通りに行わないものは、私に会っていながら私に会わず、私と一緒にいながら私から遠く離れている。また、この教えの通りに行うものは、たとえ私から遠く離れていても私と一緒にいる。」

 「弟子たちよ、私の終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は常に無常であり、生まれて死なない者はない。今私の身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気づき、人の世の真実の姿に目を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
煩悩の賊は常におまえたちのすきを窺って倒そうとしている。もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ち着いてその部屋に眠ることはできないであろう。煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。」

 「弟子たちよ、今は私の最後の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、痛み、傷つき、壊れることはやむを得ない。私の本質は肉体ではない。悟りである。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道とに生きている。だから私の肉体を見るものが私を見るのではなく、私の教えを知るものこそ私を見る。私の亡き後は、私の説き残した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けて私に仕えるようにするがよい。」

 「弟子たちよ、私はこの人生の後半45年間において、説くべきものは全て説き終わり、なすべきことは全てなし終わった。私にはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、全てみな完全に解き明かし終わった。弟子たちよ、今や私の最後である。私は今より涅槃に入るであろう。これが私の最後の教誡である。」

合 掌



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