「塔」とは本来、お釈迦様の御遺骨を祀る「佛塔」を意味しています。「塔」の語源はサンスクリット語の「ストゥーパー」を「卒塔婆」と音写漢訳し、「卒」と「婆」を省略して「塔」と呼ばれるようになりました。印度に於いて、饅頭型に盛り上げた土の塚がストゥーパーで、荼毘に付した後、お釈迦様の御遺骨(舎利)を祀る為に建立されました。
佛教が日本に伝えられた当初は、舎利信仰が中心でした。その実例として日本最古の寺院である法興寺(現在の飛鳥寺)の伽藍配置は、塔を中心に、北に中金堂、両側に東金堂と西金堂を配し、正面の中門から延びる回廊がこれら塔と三面金堂を取り囲み、講堂は廻廊外の北方に建てられました。昭和31年から昭和32年にかけて発掘調査された結果、当初の法興寺は五重塔を中心として取り囲む形で中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認されています。
また推古天皇元年(593)に建立された大阪の四天王寺は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、その伽藍配置を「四天王寺式伽藍配置」と呼んでいます。
そして推古15年(607)に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える法隆寺は、中門、右に金堂、左に五重塔、北奥に講堂が建てられ、それらを回廊が取り囲む形式で「法隆寺式伽藍配置」と呼んでいます。現存する世界最古の木造建築群です。
玄奘三蔵は、中国に伝えられている経典の内容に疑問を抱き、正しい教えを学ぶために、名利を捨て正法を求めて貞観3年(629)
17年に渡る求法の旅を終え、貞観19年(645)長安に帰国した玄奘三蔵は、1,335巻の経典を翻訳されました。請来した原典や翻訳した原本を最初は藏に保管しようとお考えになりましたが、西印度で礼拝した「法舎利塔」を思い出し、永徽3年(652)に塔を建立、その塔が中国西安の「大雁塔」で経典をお祀りする「経塔」(法舎利塔)です。
白雉4年(653)第二次遣唐使で入唐した道昭は、玄奘三蔵から直接瑜伽唯識(法相教学)の教えを学びます。斉明天皇6年(660)ころ帰朝し、日本に法相教学を伝え初伝となりました。
道昭が請来したのは法相教学のみならず、「経塔」(法舎利塔)信仰も伝えられました。伽藍建立に際し、玄奘三蔵の教えに従いお釈迦様の御遺骨を祀る「舎利塔」だけではなく、「経塔」建立の建築様式を取り入れ、二基の塔を建立する様式が確立しました。その最初が「薬師寺式伽藍配置」です。
令和5年4月21日から25日に、「経塔」として建立された東塔の解体修理が完了し、落慶法要を厳修します。
合 掌
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