薬師寺の僧侶が首に巻く襟巻の由来
管主 加藤朝胤
第130回 令和4年12月26日
画像:『原色日本服飾史』(光琳社出版)井筒雅風 著より転載
学僧としての力量を問う口頭試問である「竪義」は、宗祖 慈恩大師の御遠忌である慈恩会の法要後、希望者がある場合のみ執行されますが、佛教に関する出題があり、解答をすべて暗記して答えます。一生に一度しか挑戦できず、かつて失敗すると寺から追放されました。竪義に合格すると学僧としての力量が認められ、資格や僧階の昇進があり、初めて法相宗の僧侶として名前を連ねる事が可能となります。また慈恩会竪義に合格すると「淄州」を付ける事が許されます。
法相宗第二祖とされる慧沼は中国唐時代の僧侶で、淄州淄川県(現在の山東省淄博市一帯)の出身であるため、淄州大師と尊称されています。淄州大師慧沼の弟子の僧侶が、極寒のなか寒さを忘れて一心不乱に勉学に励んでおりました。その様子を見た師匠の淄州大師は、自ら着用している衣の袖を取り外し弟子の襟元に掛けてあげました。その故事に因んで薬師寺では竪義に合格した僧侶のみが防寒用として用いる襟巻のことを淄州と呼び、慈恩大師の御命日に当たる11月13日から使用を許されています。
僧侶が襟に巻く帽子は元来中国の習慣で、俗人が冠をつけるのに准じて寒さを凌ぐため僧侶も被ったもので、威儀を正すための襟巻に近い用途で、中国の宋代の禅宗に端を発し、日本では鎌倉時代に一般化したと言われています。
当初帽子は本来僧服のうちに入るものではなく、耐寒のために許されるもので、威儀のために許されたのではないと言われていました。時代の変遷に伴い中国の習慣が日本でも取り入れられ、高位の僧侶に許されたのでしょう。
薬師寺で「淄州」と呼ぶ防寒具用襟巻は、一般的には「帽子」、「半帽子」、「護襟」、「衿巻」と呼ばれていて、各宗派で名称や仕様が異なっています。形は、白羽二重の幅広で長い長方形の生地を半分に折り込んで、生地の端を縫い合わせたものです。帽子の本来の意義は、高位の僧侶が冬に防寒のため裂地で頭を包むためのものでありました。
日本における帽子の由来は、平安時代初期の嵯峨天皇が厳寒期に自ら着用している衣の袖を取り外し、防寒用の「襟巻」として、空海へ下賜したとの言い伝えや、嵯峨天皇が大覚寺を参拝して帰る時、お見送りに出た高僧が衣の袖を取り外し防寒用の「襟巻」としてお渡ししたとの言い伝えもあります。
天皇様や高徳から賜る品物を「賜袖」と言うことから、薬師寺では弟子がお師匠様の淄州大師から賜った襟巻を「帽子」と呼ぶのではなく、お師匠様がいつもお傍にいて励ましお護りくださっている喜びとして「淄州」と呼んでいます。
合 掌
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