古来より不潔や不浄をケガレ(気枯れ)と言い表しています。それは単に汚れているという状態を指すだけでなく、危険や不幸を
ハレ(清め)とケガレ(気枯れ)の境界は明確な場合もあれば曖昧な場合もあって、結局はその時々の都合の良い方向に自らを納得させているということが多々見られます。ケガレとは、社会生活を攪乱する行為の全てで、そんな心の状態を客観的に見てみると、人が如何に身勝手で何かに責任転嫁する無責任さを持ち合わせた生き物であることがわかります。
けれども人は、同時にケガレを浄化する方法も考え出しました。誕生時の産湯や神社佛閣の手水屋で手を洗い口を漱ぐ行為もその一例です。薬師寺でお写経をする時、丁子を口に含んだりお香を焚いた香象を跨いだりしますが、その作法は身体の内外のケガレを取り除くハレの行為です。
こうしてみると日本の身近なケガレには、清めることが出来るケガレと、清めることが出来ないケガレがあるように思いますが、世界を見渡すとインドに於いてガンジス川で沐浴することにより、人生の過去で積み重ねた全ての罪まで清めてくれるという、絶大な効力を持つお清めも存在しています。
次に通常の概念で、清浄性や神聖性を示すものを漠然とハレと捉えています。ハレは幸福、慶事、吉、豊饒を求める行為ですが、人生で誰もが受けるハレとケガレの通過儀礼が沢山あります。中でも節目となるのが誕生と成人と死です。第一の誕生(出産)は、本来ケガレであるにも拘らず、親類縁者一同で誕生を祝う為、喜びの対象に置き換えています。第二の慶事は元服(成人)で、7世紀頃から成人したしるしとして冠や特定の衣服を付け、名を改める儀式をしました。女性も元服に相当する儀式がありました。第三が死です。古代より死はケガレの概念ではなく、日常とは異なる出来事と認識しています。しかし死は、日常の異変に悲しみや驚き、恐怖を抱き、苦痛を自分に置き換えるので不幸を齎すと錯覚し、ケガレであると誤解しています。この誰もが経験する通過儀礼であってもハレとケガレを混同している有様です。
更にこの儀礼を色によって表現しています。誕生(出産)は赤。悪魔や鬼は赤い色を怖がるので、赤ちゃんと呼び、産着の背中に赤い糸を
このように、特にケガレは先入観によるもので、明確な根拠もなく、証明のしようがなく曖昧なものですが、日本人はこの概念を保持することで日常生活の中に「けじめ」を持とうとしたのではないでしょうか。
合 掌
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