毎年3月25日から31日までのいちしち日間、修二会花会式薬師悔過法要が厳修されます。この法要は、奈良時代の神護景雲元年(767)諸国国分寺に於いて悔過を厳修し諸佛諸菩薩に万民豊楽、国家繁栄、五穀豊穣、天下泰平を祈願する詔が出されました。以来薬師寺では伝統行事として勤められています。
 出家の在り方が『 馬邑ばゆう小経しょうきょう』(マハーアッサプラ・スッタ)や『馬邑ばゆうきょう』に説かれています。『馬邑小経』は、パーリ佛典経蔵中部に収録されている第40経です。また『馬邑経』は、『中阿含経』(大正蔵26)の第183経に収録されています。今回は、大法輪閣刊、木津無庵編『新訳仏教聖典』の和訳を転載させて頂きました。

 『中阿含経』 巻第48 『馬邑経』 東晋瞿曇僧伽提婆譯  

 弟子等でしらよ、汝等おんみら出家しゅっけとして知られている。又、人に問われて、私は出家であると答えている。それゆえ汝等は次のように学ばねばならぬ。「私は出家のなすべきみちを守ってゆこう、それで、出家たる真実まことがある、私にころもたべもの住居すまいと薬を与える人人に大きな幸福を得させ、この私の出家の生活ひぐらしをして無益むだなものでなく効果かいのあるものにしよう」と。

 弟子等よ、出家のなすべき法とは何であるか、それはざん とをそな える事である。然し慚愧を具えてこれだけで申し分がないと思ってはならぬ。からだことばこころ との上のおこないと生活とを清め、明らさまで隠しだてすることなく、しかも自分おのれの行を誇って自分を讃え、ひとそし らぬようにせねばならぬ。

 弟子等よ、なお 、これだけで充分に出家の目的めざしを果たしたと思うてはならぬ。五官の戸口を守り、外境そとを見てそれにとらわれないようにせねばならぬ。又、食に量を知り、食を取るに愉快たのしみのためにせず、こののりの器たる身体を支え養い、浄いぎょうをなす助とし、正しい反省を以て食事をせねばならぬ。またいつも目ざめていねばならぬ、日中は静坐せいざしたり経行そぞろあるき したりしてめられた法を行わず、も初夜には静坐し経行し、中夜ちゅうやには右脇に臥し、足に足を重ね、正心正念ひとすじに起き出るべき時を心に浮かべて、師子しし の如くにねむ り、後夜ごやには既に起き出て静坐し経行し、禁められた法から心を清めねばならぬ。又、常に往くにも還るにも、近くを眺めるにも遠くを見るにも、衣を着けるにもはつを取るにも、食事をするにも、水を飲むにも、行住坐臥ぎょうじゅうざがいつも正しい心でなければならぬ。又、常に静かな住居を求め、森の中の樹の下とか、山の洞崛ほらあなの中とか、墓場や藁鳰わらにおに座を占めて、身と心を真直にし、貪欲むさぼり瞋恚いかり疎懶なまけ睡眠ねむり掉挙うわつきくい、疑を離れて心を清めねばならぬ。そして病の苦痛くるしみに堪えない者がやまい癒え体力ちからを回復して喜ぶように、奴隷しもべが自由を与えられて自分の思う所へ行けるのを喜ぶように、また、沢山あまた財宝たからにのうて荒野あれのの旅をつつがなく終えて喜ぶように、この五つの心の覆蓋かさぶたを離れて心歓び、身体からだびして精神こころ統一ととのいを得、もろもろ禅定ぜんじょうに入らねばならぬ。

 弟子等よ、この上に、更にこの禅定によって練りあげられ、いつでも作用はたら用意ととのいのある心を以て、自他の宿命しゅくみょうを知り人人の生死しょうじを知り煩悩けがれの滅びを知らねばならぬ。

 弟子等よ、かくして初めて出家、婆羅門ばらもん、智慧ある者、平安やすらぎの人、聖者ひじりと云われるのである。

 弟子等よ、出家、婆羅門、乃至ないし、聖者とは、悪不善あくふぜんけがれもの、苦のこのみを生み、次の世に生るる根本もととなるものを鎮めた人のことである。

 弟子等よ、出家にしてし貪欲を捨てず、瞋恚を離れず、忿いかりと恨みと覆すことと自尊うぬぼれと嫉みとたぶらかしとへつらい悪欲あくよくと、邪見ひがごとを遠ざけないならば、丁度ちょうど双刄もろはの剣を衣に包んでいるようなものである。私は衣を着ているから出家とは呼ばない。裸体はだかであるから出家とは云わない。塗灰者づけしゃはただ額に灰を塗るだけ、水浴者すいよくしゃは只日に三度みたび沐浴ゆあみするだけ、何れも出家ではない。樹下きのしたに住む人、荒野に住む人、立行たちぎょうする人、食を断つ人、誦経ずきょうを誦む人、これらも只それだけの人であって出家ではない。

  弟子等よ、衣を着けるだけで、貪欲、瞋恚その他の煩悩を離れることの出来るものではない。もし出来るというなら、親は赤子あかご に衣を着けさせるであろう。裸体でいるとか、額に灰を塗るとか、日に三度沐浴するとか、樹下や荒野に住むとか、常に立っているとか、食を断つとか、経を誦むとかいうのは、只外の形だけのことであって、出家本来の道ではない。
 然らば出家本来の道とは何か。貪欲と瞋恚と忿りと、恨みと覆すことと、自尊と嫉と誑と諂と、悪欲と邪見とを離れることである。これらの悪から離れた時に、離れたことを知って喜を生み、身体が暢びやかになり、心がよく調う。かくて 一切すべて の世界を大きな慈しみの心、あわれ みの心、喜びの心、しゃ (平等)の心を以て、憎みなく怨みなく満たすのである。

 弟子等よ、たとえば岸に清らかな白沙まさごきつめ、澄み切った冷たい水を湛えた蓮池があるとする。旅人が四方から炎熱あつさに疲れ切った足を引きずってこの蓮池に来たとき、この水によって渇きをいやし、炎熱の苦しみを静めるであろう。丁度その様に、刹帝利種せったいりしゅのもの、婆羅門種のもの、毘舎ベーサ種のものが、仏の説くのりによって慈悲喜捨じひきしゃ四無量心しむりょうしんを修め、煩悩けがれの炎熱の苦しみを免れて心の涼しさを得るならば、私はこの者を出家の道に入ったものと呼ぶ。かくて煩悩をしずめ滅ぼして真の出家となるのである。

  この『馬邑経』の教えに出会った時、修二会花会式薬師悔過の行法を実践するにつけ、自らの身口意による三業が正しく行われているのか。意識無意識に犯している罪苦を深く懴悔しているのか。声明をお唱えしながら日頃犯してきた自らの罪の深さに改めて邂逅の念を抱きました。努めても努めても努めたりないのが我が努めである事を、改めて実感しました。

合 掌



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