国宝薬師寺東塔は、平成21年(2009)から保存修理の為全てを解体し令和元年修理を完了致しました。東塔の変遷を解明するため、基壇の一部を発掘調査致しました。木製品、金属製品、土器類等多数の出土品が確認された中で、注目されたのは8枚の和同開珎です。その内3枚(写真3,4,5)は未使用貨幣でした。
 建物を建立する際、地鎮のために埋納する品を鎮壇具といいます。金、銀、真珠、水晶、琥珀、瑠璃、瑪瑙、銭貨などその土地を守る氏神様に土地を利用させてもらう許可を得て、工事が無事に終わるよう安全を祈願するもので、七宝などを埋納します。わが国で最初に作られた銭貨である和同開珎は、東塔だけではなく西塔跡や金堂跡を発掘した際も発見されました。
 『続日本紀』元明天皇の条で「景雲5年(708)春正月11日 武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)に熟銅(製錬を要しない自然銅)が出たと奏上して献上してきた。この物は天におられる神と地におられる神とが、ともに政治をめでられ祝福されたことによって、現れ出でた宝である。そこで天地の神が現された瑞宝によって御代の年号を新しく換えると仰せられた。そのため景雲5年を改めて和銅元年として御代の年号と定める。」とあります。
  2月11日には催鋳銭司さいじゅせんし(銭貨の鋳造を監督する役人)を置き、5月11日には和同開珎の銀銭が造られました。7月26日に近江国にて銅銭が鋳造され、8月10日より実際に使用されました。
 「和同」は、年号の「和銅」を簡略にしたものとする説と、中国の古典にある「天地和同」「万物和同」「上下和同」という「調和」「和らぎ」とする説があります。「開珎」は「初めてのお金」という意味です。
 「珎」は「寳」の異体字とするならば「ほう」。「珍」の異体字とするならば「ちん」と読むことになります。何れにせよ我が国で最初に発行され流通した貨幣であることには間違いありません。
 和同開珎1枚は、律令で決められた通貨単位の一文いちもんとして流通しました。和銅4年(711)の記録には、「一文で米三升買える」とあり、当時と現在では升の大きさが違うので、和同開珎1枚で約2kg弱の玄米と交換出来たようです。 しかし20年後には米一升が二文、40年後は米一升が五文、50年後は十文と貨幣価値も変化していきます。
 当時はまだ米などを介した物々交換が主で、和同開珎が貨幣として流通したのは畿内とその周辺諸国だけで、地方では非常に珍しい宝物として富や権力の象徴とされていたようです。

合 掌



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