西暦紀元前486年2月15日は、お釈迦様のご命日です。
 常在給仕と呼ばれているお弟子様の阿難(アーナンダ)様は、お釈迦様が入滅されてしまえば集まることがなくなり説法を聞く事もなく、励まし合い精進に励んで敬意を表することがなくなってしまいますと訴えました。その時お釈迦様は、「全ての愛しい親しき人々は、必ず生き別れて、死に別れて、別々になるのだ。生じ、存在し、生成したものは全て破壊するのであって、それが破壊しないことは道理に合わない。私の滅後に信心ある者は私が生まれたルンビニー、悟りを得たブッダガヤ、最初に説法したサルナート、今命が尽きようとしているクシナガラの4ヶ所に立って私を思い出してほしい。これらの4ヶ所は出家と在家を問うことなく佛教者は集まり来って巡礼者として遍歴してほしい」と仰いました。この4ヶ所を四大佛跡と呼び、今も巡礼者の祈りが続いています。
 更にお釈迦様は、「弟子達よ、おまえたちはおのおの自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ。この法を灯火とし、よりどころとせよ。 教えの要は心を修めることにある。欲を抑えて己に克つことに努めなければならない。わが身を見てはその汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみも共に苦しみの因であると思ってふけらず、身を正し、心を正し、言葉を誠あるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。 弟子たちよ、この教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳のように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。この教えのとおりに行わない者は、私に会っていながら私に会わず、私と一緒にいながら私から遠く離れている。また、この教えのとおり行う者は、たとえ私から遠く離れていても私と一緒にいる」。この教えが「自灯明 法灯明 自帰依 法帰依」で『 遺教経ゆいきょうぎょう』に説かれているお釈迦様の最後の教えです。
 お釈迦は自身の葬儀について、「賢者や信心のある人々が行うべきであって、出家者が心を労すべきではない。何故かというとこの法(佛教)は命ある者が幸せを頂くためにある教えであって、命尽きた後の教えではない。死者の回向は遺徳顕彰のために在家が執り行うものである」と。 そこでお釈迦様の葬儀はクシナガラのマッラ族の習慣に従って営まれました。先にマッラ族が香華を手向け、音楽を奏でて供養しました。しかし、薪を積んで火葬にしようとしても着火しません。この頃、お弟子様の 摩訶迦葉まかかしょう (マハーカッサパ)様はマガダ国の南山地方に赴いていました。お釈迦様の入滅が近いことを感じて500人の弟子たちと急遽クシナガラに向かい7日後に到着してから、摩訶迦葉様を待つようにして火葬にされました。
 遺骨を専有しようとしたマッラ族とお釈迦様に縁のあった周辺諸国で一旦争いが生じましたが、バラモンの直性じきじょう(ドローナ)は、「慈悲深く尊いお釈迦様は、ご遺骨の分配について争う事を望んではおられない」と提案しました。そこでお釈迦様の御遺骨(お舎利様)は、マカダ国王のアジャータサッツ、ヴェーサーリのリッチャビィ族、カピラバスのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、クシナガラのマッラ族、ヴェーダディーパのバラモン、パーバーのマッラ族に8等分されました。更にドローナバラモンは舎利瓶、バラモン学生ピッパラーヤナは灰をそれぞれの国に持ち帰り、塔を建立しました。このようにお釈迦様のお舎利様は葬儀の直後から8ヶ所に分けられ、舎利瓶と灰を含め十塔が建立され信奉されています。

合 掌



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