道昭どうしょうは、白雉はくち四年(653)大使、吉士長丹・高田根麻呂、副使吉士駒・掃守小麻呂と共に第2回遣唐使の使者として入唐しました。道昭と同じく定恵も入唐したと伝えられています。長安に於いては、玄奘三蔵に法相教学を学びました。玄奘三蔵には、三千之雲集・七十之達者・四賢之上足・一秀之入室といって大勢のお弟子様がおられました。その中で遥々日本から来た道昭を自室に招き入れ法相教学を教授したといわれています。
 玄奘三蔵は印度求法の旅の中、ナーランダ大学に於いて戒賢論師から瑜伽唯識ゆがゆいしきの教えを5年間に亘り教えを受けました。その折戒賢論師は異国の僧である玄奘三蔵を手厚く持て成し、教えの全てを伝受したと言われています。戒賢論師から得た弟子に対する想い出を玄奘三蔵は道昭にダブらせたのではないでしょうか、玄奘三蔵も道昭を特別な扱いをして唯識教学を伝えました。そして玄奘三蔵から学んだ道昭は、多くの経論・経典を携え斉明天皇6年(660)ころ帰朝。飛鳥法興寺に禅院を建立し法相教学を伝えました。平城遷都後も元興寺に伝えられ、法相教学の初伝(南寺伝)となりました。
 文武四年(700)3月10日、72歳で入寂し火葬に付されました。記録に残る火葬に付された最初の僧侶です。
 一方道昭の弟子である行基は、天智7年(668)河内国大鳥郡蜂田里おおとりはちだのさとで生まれました。父は高志才智こしさいち。母は蜂田古爾比売はちだのこにひめ。天武11年(682)出家します。
 道昭に唯識教学を学び、薬師寺の第二代住職でもあります。慶雲元年(704)生家を改め家原寺とします。
 当時朝廷が定めた佛教そのものは、本来の教えである生きる指針を教えるのではなく、 鎮護国家・天下泰平・万民豊楽・五穀豊穣・風雨順時を祈る国家佛教でありました。民衆への布教を禁止していた時代に行基は、道場や寺院を建立し民衆に佛法の教えを説き人々により厚く尊敬されていました。また溜池・堀・架橋を造築したり、困窮者のための布施屋を建てるなど社会事業に勤めました。
 先にも述べたように当時の佛教は国家佛教である為、一般民衆への布教は養老元(717)年4月23日に発せられた詔である「僧尼令」に違反するとして禁止されていました。禁を破る行基の行動を朝廷は、民衆を扇動する危険人物であるとして事あるごとに弾圧したのでした。しかし行基の指導により墾田開発や灌漑事業や社会事業が進展した事は、民衆の為に活躍した行基の事実的な実績となる布施事業を示すものであるため朝廷は、天平3年(731)行基に対する弾圧を緩めました。
 天平15年(743)10月15日聖武天皇が出された「盧舎那佛造顕」の詔に対し、行基は勧進を始めます。これは、民衆の為に佛教を布教した行基が権力者である朝廷側に付いたのではなく、朝廷側が行基の民衆に対する影響力を利用したと思われます。東大寺大佛造顕の完成を見ずして天平21年(749)2月2日菅原寺(現在の喜光寺)にて82才の生涯を閉じました。菅原寺から生駒山東陵の往生院まで輿に乗せて野辺の送りをしたことから、生駒山東陵一帯を輿山と呼び、往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納されました。

合 掌



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