今回は「居士こじ」についてお話します。身近で「居士」という言葉は、ご先祖様の戒名に付ける位号と認識されていますが、本来「居士」とはサンスクリット語のグリハ・パティで迦羅越からおつ と音訳され、家主、長者、在家を意味しました。 出家して僧侶になっていなくとも、お釈迦様に帰依して佛教の奧義に達し、全ての人を分け隔てなく導く菩薩行の実践者を言います。在家で佛道に帰依する徳行ある人の称号です。江戸時代に入り、徐々に一般庶民にも用いられるようになりました。檀家制度が始まり、男性が死亡した後の法名の次に付ける位号(送り名)として戒名に付ける名称にもなりました。しかし、本来は戒名に付ける送り名ではありません。

 在家で佛道に帰依する人物が主人公となるお経に『 維摩経ゆいまきょう』があります。
ある時、お釈迦様は維摩居士が病になっていることを察知して、大勢の弟子や菩薩に「誰かお見舞いに行ってほしい」と頼みます。しかし弟子たちは、維摩居士との問答でやり込められた経験があり誰も行きたがりません。そこで文殊菩薩がお見舞いに伺うことになりました。
 文殊菩薩は維摩居士に会うと「あなたはなぜ病になったのですか。どうすれば治癒するのですか」と尋ねます。すると維摩居士は「全ての衆生は思い込みと執着心によって病む。 衆生が病んでいるから私も病むのです。衆生の病が治癒したとき、私の病も癒えるでしょう」と答えました。私たちは物事に執着するから患い、苦しみが増長します。それを教えるために菩薩は、苦しむ衆生を憐れむが故に、菩薩自身が病になる姿を見せると説いたのです。
 また『維摩経』が説いた教えに「不二法門ふにほうもん」があります。「不二法門」とは、相反する二つのものは個々に存在しているのでは無く、本来一つであるという意味です。 例えば「善と悪」「浄と穢」「敵と味方」「損と得」「悟りと迷い」「生と死」「肉体と精神」といった概念は対立として捉えてはいけません。
 文殊菩薩と維摩居士は不二法門についての思索を深めてゆきます。文殊菩薩が「全ての事は言葉も説明も意識する事も、相互関係を離れて超越しています。これを不二法門に入るといいます」と答え、最後に維摩居士に「不二法門に入るにはどうしたらよいですか」と質問しました。 維摩居士は黙然もくねんとして語りませんでした。 文殊菩薩はこれを見て「なるほど文字も言葉もない事こそ不二法門を現わしているのだ」と讃嘆しました。これが「維摩の一黙雷の如し」の表現で、佛の教えは文字や言葉で説明する事も、思い量る事もできないと身をもって示す行為でした。
 お釈迦様に帰依して佛教の奧義に達し、全ての人を分け隔てなく導く菩薩行の実践者が「居士」の由来です。  

合 掌



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