集諦じったいの集とは集起じゅうきの略で諸縁が集まって起こる原因の事です。 諦は真理・真実という事で、明らかに物事を眺める事です。真実にして少しの誤りもない真理の事で、お釈迦様の教えの基本です。 四諦の法門は、実に正当な真であって、何ものを以てしても変化する事のない尊い教えです。佛教を一貫する中心思想です。
 人生の苦にも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれをはっきり認識する事が大切です。
諸苦しょく所因しょいん貪欲とんよくこれもとなり」 と『法華経 譬喩品ひゆぼん第三』にあるように、この人生のすがたを眺めてみても、一切の現象や事柄に何一つとして「苦」でないものはありません。 一時的に「楽」だと認識する事もありますが、それはただ表面上だけの事で、実際は決して「楽」ではなく最終的には必ず「苦」に陥ってしまいます。
 お釈迦様は、殊更に人生の「苦」の一面だけを指摘されたのではなく、その如実相にょじつそうである人生のありのままのすがたを正直に示されました。
種々の「苦」は何によって起こるかというと、過去に於いて犯した悪業とその業を起させる妄想、即ち「わく」とによって招いたものです。現世の境涯を招いた原因に付いて、例えば創造者が決めたものであって、 どうする事も出来ない運命として決められた事とする説があります。ところがお釈迦様は、そうした創造者が立てる説を完全否定して、人生の如何なるものも各自の業とその基となる「惑」によって起きると示されています。
「業」とは善悪の行為です。行為や言葉や心によって現れます。名誉の為、利得の為と、さもしい目的が潜んでいませんか。 動機と結果が一致せず折角の善業が悪果を招く事になりかねません。自分自身では気が付かない汚れた心が、行為の基となっているからです。この汚れた心を「惑」というのです。「惑」とは、相手の事柄に惑わされて、正しい見解を起す事が出来ないという事です。 この「惑」が貪欲という形の煩悩です。惜しい、欲しい、憎い、可愛い等いろいろな感情が汚れた心です。貪欲の中で最も力強い働きをするのが「渇愛かつあい」です。
喉が渇いた時、水が飲みたくなるように、私たちが欲望に対して満足を求める心の状態です。限りなく物事を貪り求める事です。
欲望をあるがままに増大させ、人の迷惑などおかまいなしの身勝手な思いや行為が、不幸を呼び起こす根本です。

合 掌



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