玄奘三蔵院伽藍の落慶法要は、平成3年3月20日から26日までの7日間厳修致しました。期間中15,000人の御参拝を頂きました。
 『西遊記』に登場する三蔵法師は、16世紀、中国の明時代に、玄奘三蔵が果たされた文化事業に対する尊敬と驚嘆、更に親しみの思いが呉承恩という作者をして大衆小説に仕上げられたものです。 孫悟空、沙悟浄、猪八戒という異なる存在がそれぞれ大活躍するので、虚構小説の架空の人物の様に思われますが、三蔵法師は7世紀に厳然と実在された僧侶です。
 昭和17年12月23日中国南京丘上で、石棺が出土しました。唐時代末期の内乱で、玄奘三蔵の御頂骨を移葬されたものである事が石棺に刻銘されていました。 その後南京政府は、分骨し佛教国である日本に敬贈され、昭和19年12月23日上野の寛永寺で恭迎法要が厳修されました。当時は戦争の真っただ中で、お世話役の一人でありました埼玉県岩槻市の慈恩寺で仮に安置されることになりました。 慈恩寺の大島見道住職は、「お世話役をしていたご縁があり慈恩寺でお預かりする事と成りましたが、やはり所縁ゆかりのある奈良の薬師寺さんでお祀りして頂くのが相応しく思います。玄奘三蔵もお慶びになる事でしょう。」とかねがね仰っておられました。 高田好胤管長もこの経緯をよくご存じでした。
 高田好胤管長が何故玄奘三蔵院伽藍の建立を願われたのかというと、玄奘三蔵は架空の人物であると思われていたことです。そして玄奘三蔵が国禁を犯してまでも求法の旅に出られたのは、唯識教学研鑽の為でありました。 この唯識教学に基づいて成立したのが法相宗です。この法相宗の大本山が薬師寺です。
 更に白鳳時代に創建された薬師寺伽藍の結構は『大唐西域記』に基づいて誕生しました。一つの伽藍内に東西両塔双建の嚆矢こうしをなすのが薬師寺式伽藍です。 三重塔も金堂も各階に裳階もこしを付けている建築様式は、『大唐西域記』に幾度となく重閣建築様式の記述があるからです。 白鳳伽藍復興の為のお写経である『般若心経』『薬師経』『唯識三十頌』のお経を翻訳されたのも玄奘三蔵です。 また薬師縁日に転読する『大般若経』も玄奘三蔵が翻訳されたお経です。
 数々の深いご縁に思いを込め薬師寺玄奘三蔵院伽藍が建立され30年を迎えます。

合 掌



「加藤朝胤管主の千文字説法」の感想をお手紙かFAXでお寄せください。
〒630-8563
奈良市西ノ京町457 FAX 0742-33-6004  薬師寺広報室 宛