お釈迦様は釈迦族の皇太子として西暦紀元前565年4月8日にお生まれになりました。
 春、青年皇太子は耕耘こううんの祭に父王に従って田園に出て、農夫の耕すさまを見ているうちに、すきの先に掘り出された小虫を 小鳥がついばみ去るのを見て、「哀れ、生きものは互いに殺しあう」とつぶやき、ひとり木陰に坐って静思しました。
 生まれて間もなく母と別れ、今また生きもののみあう有様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻み込まれました。それはちょうど、若木につけられた傷のように、日とともに成長し、 太子を益々暗い思いに沈ませていくのでした。
 父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を引き立てようと色々企てました。ついに太子19歳の時、太子の母の兄デーヴァダハ城主スプラブッダの娘ヤショーダラーを迎えて太子の妃と定めました。
 この後10年の間、太子は、春季・秋季・雨季それぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しみましたが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見極めようと苦心されていました。「宮廷の栄華も、健やかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局この私にとって何であるのか。 人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。
 人間が生きている事は、結局何かを求めている事にほかならない。しかし、この求める事については、誤ったものを求める事と、正しいものを求める事の二つがある。誤ったものを求める事というのは、自分が老いと病と死とを免れる事を得ない者でありながら、 同じようにそれらのものを求めている事である。正しいものを求める事というのは、この誤りを悟って、老いと病と死とを超えた人間の苦悩のすべてを離れた境地を求める事である。今の私は、誤ったものの方を求めている者にすぎない。」
 このように心を悩ます日々が続いて月日は流れ、太子29歳の年、一子ラーフラ(羅睺羅らごら)が生まれた時に、太子はついに出家の決心をしました。 太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって住みなれた宮殿を出て、この俗世界とのつながりを断ち切り出家の身となりました。

このお話は『パーリー経典』等に登場します。


合 掌



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