【カミの神体化とホトケの秘佛化】
 平安時代には神佛習合しんぶつしゅうごうが進むにつれて、両者の相互影響が表面化してきます。壮麗な寺院の佛殿に刺激されて神社に社殿が造営されると共に、佛像をモデルとした神像が製作されるようになり、神の「依り代」に代わって神の造形である神像が登場します。 しかもそうなると姿のないはずの神が、姿のある神となったとたんに、ご神体そのものを社殿の奥深く秘して隠すことになりました。カミは人の秘すべき存在だからです。ところが同時に佛像のほうにも変化が起きました。 つまり本来は「見せる神」であったはずのホトケが、より広く深く日本に土着化するに連れて、逆にカミの性格を帯びて秘佛化してきました。当時南都六宗の顕教に対して台頭してきた天台と真言という密教の影響もあって「見せる」はずの佛体がご神体のように秘佛化して佛殿の本尊が内陣の奥深く厨子に納められ、社殿に鎮まる神のように普段はその姿を見せなくなりました。 この様にして密教における日本の佛だけが日本の神の真似をして、特定の祭日、数十年、数百年に一度という特定の縁日の開帳にしか姿を現わさなくなったのです。この行事が一般的に秘佛公開という特別行事となりました。
 こうしたカミの偶像化とホトケの秘佛化とが相まって、互いに個性を失わずに「本地佛と垂迹神」の関係や「社寺曼荼羅」の世界が生まれ、神佛の取り合わせとも言うべき棲み分けの宗教文化となりました。

【信仰のかたち】
 宗教は絶対的なものの存在を信じ、帰依することであって、病苦や死の恐怖からの救済・開放を祈念するものであるのに、奈良時代当初の佛教は鎮護国家の役割が重視されていました。 時の為政者は単に国家建設のために組み込まれる道具、即ち国家として一定数の僧侶を擁し、祈願や祈祷をさせることにより病疫の蔓延を防止し、国家の秩序を維持するものと考えていました。 あるいは佛教は学問の対象であって、異国文化の一つに過ぎないものであり、佛教を受け入れることは神を祀る事と矛盾しないとの理解があったと考えられます。病苦に喘ぐ衆生を救済するという佛教の宗教的優越性は、日本古来の神にはなく、 神に祈るのは、偉大な自然界に対する畏敬の念から生じた漠然とした祈りでした。
この様に神道と佛教の壁を越え、信仰の上で人々は大いなる深まりを感じた事でしょう。神道は主に氏神的な地域性を持ちますが、本地佛と相まって地域を越えた一般的なものとなり、広い範囲の信仰が得られました。 またそれぞれの神が本地佛を持つことによりさらに特徴が加味され、祈願・祈祷・加持などが盛大な宗教儀礼として行われ民衆を一層引き付けることとなりました。神道と佛教双方にとって大衆の信仰を集める上に極めて有効な手段であったといえるでしょう。
  日本に於ける神道と佛教の複雑な関係は、日常生活の中で何ら疑問を懐く事なく、身近な生活習慣として信仰されてきています。

合 掌



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