今回からはお釈迦様の説話をお届けします。お釈迦様の目指された佛教は難解なものではなく、一日一日を心豊かに生きる為、幸せをいただく為の方法をわかりやすく教えて下さっています。

「世の中は常住なるものか。無常なるものか。世界に果てがあるのかないのか。霊魂と肉体は同一か別なのか。死後の世界は存在するのかしないのか。」との問題に悩みお釈迦様に解答を迫ったマールンクヤは、この答えを知りたくてたまりませんでした。 しかしお釈迦様は、それらの問いに一切答えられず、問いかけてもいつも黙したままでありました。
 そこでお釈迦様は、ある喩えをもってマールンクヤにお説きになりました。「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんなやじりがついていて、つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。」
お釈迦様は静かに続けられました。「生があり、老いがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え等、人生の苦しみを解決する道があるから私は説いている。毒の矢を抜き去るように苦を速やかに抜き去ることが、いちばん大事なことではないのか。」 お釈迦様は、優しい眼差しで、マールンクヤに深くお話になりました。「汝はそれらの問いに拘り続けている。マールンクヤよ、世界は常住とか、無常であるとかが解っても、生老病死しょうろうびょうし愛別離苦あいべつりく怨憎会苦おんぞうえく求不得苦ぐふとっく五蘊盛苦ごうんじょうくの四苦八苦から自由になる事はないであろう。 私たちはそれらの一切皆苦の現実を見極め、自らの煩悩を克服する事を願っている。」
更にお釈迦様は「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。 ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである。
 ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう。 しかし悟った人は事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある。」と諭されました。
この毒矢のたとえを聴いたその修行者は、歓喜してお釈迦様の教えを信受いたしました。

このお話は『中阿含経ちゅうあごんきょう』や『中部経典第63経』等に説かれています。
私たちは、自身の都合のよい現実のみに囚われて一喜一憂していますが、真理を正しく受け止め、素直に受け入れる事が大切であると、私は認識しています。

合 掌



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