金堂を復興するためには、多額の資金が必要でした。企業から寄付金を集めて資金を調達するという方法を、側近の人々は提案しました。 しかし、高田管長は、義理や割り当てで集められた資金で建築されたお堂では、いくら形は出来上がってもお薬師様は喜んで下さらない。一人でも多くの方々の浄財を頂いて建てられたお堂でなければと、大いなる願いの下、般若心経をお写経していただき納経料・永代供養料としてご寄進を頂戴して、その浄財で金堂を復興する「般若心経の百万巻写経による金堂復興勧進」を発願されたのでした。しかし遅々としてお写経勧進は進みませんでした。 そんな時高田管長は、大分の邪馬渓やばけいにある青の洞門を訪ねておられます。
青の洞門は、大分県中津市にある邪馬渓の山國川に面してそそり立つ競秀峰きょうしゅうほうの裾にある全長約342mの璲道すいどうです。諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海ぜんかい和尚は、 断崖絶壁に鎖のみで結ばれた「鎖渡し」と呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、村人のために安全な道をつくることを決意し、のみと槌だけで約30年かかって完成させました。この洞門を歩けば、270年前の血と汗が染み込んだ荒い鑿跡に、 想像を越えた禅海和尚の艱難辛苦かんなんしんくを見ることができ、和尚の一念に驚かされずにはいられません。
 この逸話を元にして書かれた小説が菊池寛の『恩讐の彼方に』です。高田管長の書架の片隅に、何度も読み返されたと思われる手垢の染みた文庫本を見つけた時、金堂復興を発願したものの、お写経勧進の難しさに揺らいだ心を初心に帰らせ、 敢えて遠い道を行こうと信念を貫かせたのは、この小説であったのではないかと思いました。高田管長は金堂復興勧進を始めた最初の頃、この青の洞門を三度訪れた事を私は後日知りました。そして鑿跡を手で触れ、しばし思いに耽っておられたと・・・。
 高田管長が日本全国を巡りお写経勧進を続けた結果、昭和51年金堂が完成しました。落慶式は4月1日。完成した金堂を引き渡す「お鍵渡しの儀」で宮大工の西岡常一棟梁さんが「出来上がりました」と鍵を渡します。受け取る相手は、高田管長ではなくお写経者のご代表。 一巻一巻のご浄財が集まって大きな力になったのですから。
お写経者のご代表は、西岡棟梁から鍵を受け取り、その鍵を高田管長に「どうぞお薬師様のお堂としてお使いください」と渡されました。鍵を受け取った高田管長は、落慶式に参列されているお写経者に最初に「皆さまお目出度う御座います」その後「有難う御座います。 こんなに立派な金堂をお建て頂いたのも皆様のお陰です」とお礼を述べられました。
 昭和43年以来続けられている般若心経のお写経勧進は、金堂・西塔・中門復興に続き昭和59年11月玄奘三蔵院伽藍の建立に引き継がれました。玄奘三蔵を顕彰する為の新たな伽藍が建立されたことは、当に玄奘三蔵が翻訳した般若心経のお写経のご縁によるものです。  

合 掌