金堂を復興するためには、多額の資金が必要でした。企業から寄付金を集めて資金を調達するという方法を、側近の人々は提案しました。
しかし、高田管長は、義理や割り当てで集められた資金で建築されたお堂では、いくら形は出来上がってもお薬師様は喜んで下さらない。一人でも多くの方々の浄財を頂いて建てられたお堂でなければと、大いなる願いの下、般若心経をお写経していただき納経料・永代供養料としてご寄進を頂戴して、その浄財で金堂を復興する「般若心経の百万巻写経による金堂復興勧進」を発願されたのでした。しかし遅々としてお写経勧進は進みませんでした。
そんな時高田管長は、大分の
青の洞門は、大分県中津市にある邪馬渓の山國川に面してそそり立つ
この逸話を元にして書かれた小説が菊池寛の『恩讐の彼方に』です。高田管長の書架の片隅に、何度も読み返されたと思われる手垢の染みた文庫本を見つけた時、金堂復興を発願したものの、お写経勧進の難しさに揺らいだ心を初心に帰らせ、
敢えて遠い道を行こうと信念を貫かせたのは、この小説であったのではないかと思いました。高田管長は金堂復興勧進を始めた最初の頃、この青の洞門を三度訪れた事を私は後日知りました。そして鑿跡を手で触れ、しばし思いに耽っておられたと・・・。
高田管長が日本全国を巡りお写経勧進を続けた結果、昭和51年金堂が完成しました。落慶式は4月1日。完成した金堂を引き渡す「お鍵渡しの儀」で宮大工の西岡常一棟梁さんが「出来上がりました」と鍵を渡します。受け取る相手は、高田管長ではなくお写経者のご代表。
一巻一巻のご浄財が集まって大きな力になったのですから。
お写経者のご代表は、西岡棟梁から鍵を受け取り、その鍵を高田管長に「どうぞお薬師様のお堂としてお使いください」と渡されました。鍵を受け取った高田管長は、落慶式に参列されているお写経者に最初に「皆さまお目出度う御座います」その後「有難う御座います。
こんなに立派な金堂をお建て頂いたのも皆様のお陰です」とお礼を述べられました。
昭和43年以来続けられている般若心経のお写経勧進は、金堂・西塔・中門復興に続き昭和59年11月玄奘三蔵院伽藍の建立に引き継がれました。玄奘三蔵を顕彰する為の新たな伽藍が建立されたことは、当に玄奘三蔵が翻訳した般若心経のお写経のご縁によるものです。
合 掌