「般若心経」の正式な名称は「摩訶般若波羅蜜多心経」です。
「摩訶般若波羅蜜多心経」の「摩訶」は「大いなる」、「般若」は「智慧」、「波羅蜜多」は「幸せを頂くための」、「心」は「中心となる」、「経」は「教え」という意味です。 ですから「摩訶般若波羅蜜多心経」とは、「大いなる智慧によって幸せを頂くための中心となる教え」ということです。それを262文字で漢訳したのが玄奘三蔵法師です。
 般若心経の教えの中心は、六波羅蜜の教えです。「六波羅蜜」とは、「布施ふせ」「持戒じかい」「忍辱にんにく」 「精進しょうじん」「禅定ぜんじょう」「智慧ちえ」の六つの実践です。最初が「布施」、様々な施しをさせて頂く修行です。 貪欲や怒りの心を捨て、人に正しい教えを伝え喜びや安心を与える「布施」には3つあり、「法施ほっせ」「財施ざいせ」「無畏施むいせ」です。 お釈迦様の正しい教えをお取次ぎして伝える。これが「法施」です。お坊さんに正しい生き方を教わり、「有難う御座いました」と感謝の心を施す、これが「財施」です。 「無畏施」は恐れを知らない迷いのない心を施すことです。布施をする人、布施を受ける人、布施するそのもの自体全てが清らかでなければなりません。打算的な心や下心がどこか一つでも込められていたら「布施」とは言えません。 それら全てが整った時、それを「三輪清浄」さんりんしょうじょうと言います。

 薬師寺は享禄元年(1528)戦乱の火災により灰燼かいじんに帰しました。唯一免れたのが東塔です。ご本尊の薬師三尊様も焼けはしたものの、金銅製だったお陰で焼け残りました。 しかし70年程雨曝しのままで「これではいけない」と慶長5年(1600)に仮金堂が出来ました。私が初めて薬師寺を訪れたのは昭和43年でした。薄暗い仮金堂に入って上を見たら天井の隙間から空が見えました。そんなみすぼらしいお堂でした。
 昭和42年4月1日、法相宗 大本山 薬師寺住職に晋山した高田好胤管長は、450年前に焼失した金堂の復興を発願されました。ご本尊の薬師三尊像をお祀りする仮金堂を白鳳時代の元の姿に復興することは、薬師寺歴代住職の悲願でありました。 当時は戦後の復興が急速に進んでいるとはいえ、堂塔伽藍の復興に物心共に力を寄せて下さる人々は皆無と言っても過言ではありませんでした。
 昭和42年11月18日に仮金堂の前で、高田好胤管長の晋山式の法要が厳修されました。最後のお礼の挨拶で、「歴代の薬師寺住職の念願は、この仮堂のままのお堂を創建当時のお姿に復興することです。 師匠である橋本凝胤管長はじめ、歴代住職は、念願であった金堂復興を成し遂げることが出来ませんでした。小学校5年生から今まで育てて下さった師匠への恩返しは、師匠が成し得なかった事を叶える事であります。 金堂を白鳳時代の元の姿に復興することが、師匠に対する恩返しと思っています。」と宣言されると共に般若心経のお写経勧進による金堂復興事業が始まりました。

つづく